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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

ぜんぜんだいじょばないカント/純粋理性批判(中) 解説1

 まったく訳の分からない日々がはじまっている。とりあえず手足を動かし日銭を得て、もりもり飯を食べすやりと寝る。本を読まなくなったので自分と向き合うことが減り、セーブポイントを逃しているような気分になる。そう書いてみたが、果たして本を読むことで自己と対峙しているのかと聞かれると答えに迷う。以前、letter from Kyotoの川添さんと話したときに読書の話になり、「なんで本を読んでいるんですか」と質問された。私は「考えなくていいから」と回答した気がする。テレビも本も一緒で、情報が勝手に入り込んでくる。そこに思索の余地はあるが単純に考えるよりもずっと少ない。夜が明けようとしている。WINDHAMHILLが流れている。

 そこまでたくさん本を読むのも面倒になってきたので、今年はあと三冊程度でいいことにした。その栄えある一冊目は「純粋理性批判(中)」である。こいつはまったくもって意味が分からない。文字と単語が日本語であることは確認したが、つなげてみるとこわいかにとなる。それでも時間をもって付き合っていけばなにか手がかりがつかめそうな気がするので、キーボードをたたく。

 純粋理性批判の上巻を四月に読んだ。あれは言うなれば「当たり前をさがす旅」である。世の中には当たり前体操がはびこっているが、果たして当たり前はどこからくるのか。生まれながらのアプリオリがあるのは知っているが、それでも納得ができない。カントは神経質だ。上巻の内容はほとんど忘れてしまったので、興味のある人は過去の記事を読んでほしい。

あたりまえ体操の入り口 / 純粋理性批判(上)の解説 - マトリョーシカ的日常
金曜のたい焼きに結合するあんこ/「純粋理性批判(上)」解説 その2 - マトリョーシカ的日常
図式と時間と渋谷/純粋理性批判(上)解説3 - マトリョーシカ的日常
走る東海道本線と川沿いリバーサイド鎌倉/純粋理性批判 (上) 解説4 - マトリョーシカ的日常
今のはカントのフタエノキワミ?!/純粋理性批判(上) 解説5(終) - マトリョーシカ的日常

 中の内容だが、まだ全貌を把握していない。時間はあるので頭からだらだら読もう。内容を適当に書いていく。

 感性と悟性はそれぞれはあやまちを犯さない。なぜなら感性はただの受信機であり判断をしないからで、悟性はほんとうにしっかりしているからだ。人間が間違いをおこすのは感性と悟性の相互作用に寄るものである。中巻で話すのは先験的弁証論であるが、間違いとか錯覚をとりあげていきたい。当たり前を求めるにはそれらの源泉であるスーパー当たり前銭湯の謎を解明せねばならない。それは理性のなかの純粋理性である。サイヤ人のなかのスーパーサイヤ人だ。つよい。カントは純粋理性を理念(イデー)と名付けた。名前が多すぎる。

 理念という言葉を作ってしまった言い訳をつらつら述べる。プラトンは似たような意味合いのイデアをつくった。イデア論はこの世には絶対確かな規則があって、それがあるから私たちは息を吸って吐けるぞ!という論だ。カントはそれに一部賛成する。しかし、「でもそれって経験則だよね」と反論する。イデアは経験によるところにしか対応できない。ニュートン力学的な物理法則とか。道徳はあてはまらない。

自然に関しては、我々に規則を与えるものは経験であり、経験が真理の源である。しかし道徳に関しては、経験は(残念ながら!)仮象を産む母であり、私がなすべきところのものに関する法則を、なされるところのものに求めようとし、或は後者によって前者に制限を加えようとすることは、まことに以てのほかの沙汰である。

 じゃあ、道徳はどこからやってきたのか。続きはまだ読んでない。

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)

純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)