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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

走る東海道本線と川沿いリバーサイド鎌倉/純粋理性批判 (上) 解説4

 渋谷センター街のスタ丼で夕飯を食べた。店を出てから気づいたが、昼飯も豚肉を食べていた。それだけ肉を欲していたのだろう。駅前は人でごったがえしていた。ごったがえす、という表現はまさに的を射ていると感じた。彼らの名前は知らないし、これからも知ることはない。山手線の乗り方を教えてもらい、東京駅に向かった。鎌倉へ行く方法はたくさんあるはずで、渋谷からも安く早く行けるルートがあるのだろう。しかし、東京に行っておけば間違いはないし、それ以外の駅では不安があった。


 純粋悟性の原則は、カテゴリーに対応して四つ存在する。直感の公理、経験の先取的認識、経験の類推、経験的思惟一般の公準だ。意味がわからない。噛み砕いて自分なりに書き換える。今回は先の二つだけ紹介する。ひとつは、世界は足し算でできていること。もうひとつは、それぞれの程度は足すことがてきないということだ。

 いまここにいる世界は、全ての総和である。腰掛けている椅子、目の前にある机、それらが置かれている部屋、部屋を内包する家、地上、地球。いくらでも部品があり、名前を持つ。私たちは足し算しかできない。オリジナルなものなどなく、既存のものの組み合わせを変えるだけだ。

 しかし、その部品にも測りがたい度が存在する。熱や色、質感がそれだ。温度や湿度計に表示されるそれは度ではなく、単なる量、部品である。私たちは現象を量によって認識するが、それだけではなく他の何かも併せて自身に取り入れる。「たいせつなものはね、目に見えないんだよ」と王子様は言っていた。今の考えにあてはめるなら、たいせつなものは度である。

 私を乗せた東海道本線は、夕方の東京をいなしていく。車窓からはビルの群れが現れてはひゅんひゅんと消えていった。彼らは総和の一部だ。しかし、この形容しがたい空の色はそれではない。内包される度だ。ビルも空の色もどちらもそこにあり、連続して存在している。しかし、悟性の原則にあてはめるとそれらは異なる分類がされる。不思議だ。

 ホテルはリバーサイド、川沿いリバーサイドにあった。井上陽水の曲にそんな歌があった気がした。先に料金を払ってチェックインした。部屋はそこそこ広かった。だれかのJ-POPがじゃんじゃか聴こえてきて、気分が少し悪くなった。壁が薄いのかなと思ったが、数十分の後に、その音は私の部屋から流れているオーディオであることがわかった。枕元の電源を切った。静かになった。

 すぐに寝た。

リバーサイドホテル

リバーサイドホテル