旅先にも関わらず、いつもと同じ時間に起きた。しばらく部屋で過ごしたあと、一階のレストランで朝食を食べた。ビュッフェ形式で、それぞれの大きな皿にパンとスクランブルエッグ、ウィンナーや野菜が置かれていた。適当とった。デロンギのコーヒーメーカーで挽きたてのコーヒーを飲むことが出来たのが嬉しかった。新聞を読もうとしたら、途中のページから上下逆さまになってホチキスで綴じられていた。面倒になってしまい、読むのをやめた。
七時前にチェックアウトした。まだ時間に余裕があるので、川沿いの道をゆっくりと歩いた。木々は青くさわさわしていて、五月前特有の空気があたりを包んでいた。ここが都会なのか田舎なのかよく分からなくなってきた。駅に向うに連れてひとが多くなってきた。今日が平日だったことに気づいた。まだGWに入っていない社会人や学生がすごい勢いで改札に吸い込まれていった。彼らには止まると爆発する装置がついているのではないか。電車は15両でやってきた。新幹線か。
目的地近くの駅まで来た。まだまだ時間がある。構内にあるドトールに入った。本日のコーヒーを頼んだ。席につき一口を飲むと、読書に移った。
先日の「純粋理性批判(上)」の続きからはじめる。今日はあと二つの原則について説明する。経験の類推と、経験的思惟一般の公準だ。言葉を置き換えるなら、「経験は時間によって関連づけられる」ということと、「認識の種類によって概念は異なる」ということか。
経験は時間の様態によって生まれる。時間の様態は、不変、継起、同時の三つがある。つまりは質量保存の法則と、因果律と、作用反作用の法則だ。
私たちは出かける際に入道雲が見えたなら、傘を用意して家を出る。これは入道雲雲と雨は水の要素を持つものであることを理解しているからである。そして、雨が降ると衣服が濡れることを知っている。更にはそのときに傘をさせば、雨と傘が相互に作用し雨に濡れずに済むことも体感している。経験は時間の三様態によって規定される。つまりはそういうことだ。
認識の種類と書いたが、もしかしたら表現に間違いがあるかもしれない。けれどそれより上手い言葉を知らない。この原則も先ほどと同じように三つにわかれている。可能的と現実的と必然的だ。カント曰く、認識するなにかによって概念の対象の言われようは変わるらしい。経験の形式的条件にだけ結びついているときは、その概念の対象は可能的である。知覚によって規定されていれば、現実的である。そしてカテゴリーに基づいていれば必然的である。なんのこっちゃ。
そいつを物差しで測るなら可能的、手で触れるなら現実的、あたりまえに基づいてその存在を考えれば必然的。そうやって適当にかたをつけることにした。そうしないといつまで経っても読みきれない。
上巻の最後にとんでもない記述があった。
してみるとカテゴリーの先験的使用は、使用とは言うものの実際には使用ではない、また規定された対象はもとより、せめて形式に関してだけでも規定され得るような対象すらももつものではない。
あたりまえなんてないよ、全部経験から生まれたんだよ。という話らしい。今のはカントのフタエノキワミ。私はいったい何と戦っていたのだろう。
しばらくしてドトールを出た。fablab鎌倉に向かう。
- 作者: 黒碕薫,和月伸宏
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