Photo by Arash Asghari on Unsplash
複雑な問いを望めば望むほど正解は単純になっていく。逆に単純な問いはどこまでも奥が深く、私の細胞では入り込めないほど入り組んでいる。そうしてできたのが地球である。日々の業務の圧は強まる一方で、なにがしかに追われている。しかしそこに心的ストレスは存在せず、比較的楽しく働くことができている。時折抽象的な問いを立てて、世の中の平均値を求めたがるが、それがなんの意味もなさないことは理解している。私がえがき、もがき、あがくのは魂の充足であって、それは人によって異なる形態をもつ。
というのは二週間ほど前の話。長期休暇に入り子供と一緒に遊んだら、脳のイメージが軽い方向へ降りてきた。現実的な視点になった。仕事は楽しいけど、残業続きだと体にはよくない。弊社には残業時間の上限(月五十時間)が設けられており、それをオーバーすると強制的に休暇をとらされる。考えてみると、その上限の設定は至極まっとうなものかもしれない。ちゃんと調整しよう。
惰性で生活を回すのは、人生の質をあげるのによろしくない。睡眠時間と業務時間は調整できるようにしたい。内容ではなく、時間で調整する。なぜならそれは定量的だからだ。内容がどうあれ、記録が簡易になる。睡眠を毎日六時間はとる。残業時間を五十時間以内に収める。そうしたら健康に過ごせるし、家族ともたくさん話ができるし、趣味の時間も持てる。いいことづくめだ。
でも、目的地を定めずに文章を書く様は惰性そのものではないか。これはいいか。楽しいし、それほど体には負担がかからない。私は文章を書くことによってしか考えをまとめられない。のかも。定めるのは目標ではなく、目標値であったほうがいい。正確に言えば、目標を決めてからそれを具体的に数値として落とし込むことが肝要である。ずっと前から言われる当たり前のことだ。
散逸した記憶の中から仕事の転機をたどってみると、どう考えても一年前の異動しかない。当時、私は別の部署で業務を進めていたがこれが全く苦しいものだった。周囲に気を配り、段取り良く進めていけばダメージは少なかったのだろうが、私にはこの「周囲に気を配る」というのが絶望的にできなかった。自分の好きなことしかしたくなかった。自分の正しさを盾にしてブルドーザーのように前へ進んでいた。抵抗は強かった。転職も考えたが、実行する前に異動し、今のところへ落ち着いた。そこは各人の自主性がわりと優先されていて、業務の進め方や内容はそれぞれに任されていた。進捗の報告も頻繁には必要なかった。どうなったか。仕事がめちゃくちゃ楽しくなったのだ。失敗も多いが、それでも失敗ができるという事実に喜びを隠せない。給与の面で見ても異動前より評価は上がっている。(気がする)。よかった。
いつだったか。前の部署で「君は変わるつもりがあるのか」と聞かれ、「変わりたいけど完全に変わることはできないと思う」と答えた記憶がある。それは全くの本心で事実だったが、おそらく変わる努力をしない人間と見られたと思う。仕方がない。異動後も結局私は変わらなかった。細々としたものは変化しただろうが、気質というか根本は生まれてからそのままだ。自分で勝手に進めたい人間なのだ。
こうした体験から、私は自分や自分以外の存在やありかたを大きく変えてやろうと思わなくなった。それぞれが異なる世界観を有していて、なにが大切なのかも違う。だったら、その違いを許容し、吸収し、受け流し、やり過ごし、よい方向へ持っていけばいい。絶対に正しい解は存在しない。ベストを勝ち取るのではなく、ベターを重ねるスタンスでやっていこう。
あまり文章がまとまらないがここまでにしよう。
Sponsored by イーアイデム
- 出版社/メーカー: 雪印メグミルク
- メディア: 食品&飲料
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (1件) を見る