我々、否、私の目標は諸問題の解決や実生活の向上であるが、その際に必要なのはゲインの調整である。抽象的にいうとそこに評価関数があって、いくらかの変数があり、それらを日々調整しながら関数を最大化させることが目的となる。ゲインの調整を行うには安定した環境が必要である。だから私は安定化に努めなければならない。衣食住がある規定値を満たしてはじめて次のステージに望める。例えば、すんげぇお金持ちになりたいと思っても、住むところや食べるところに困っていたり、何らかのストレスを抱えているとあまりうまくいかない。不安定な環境から向上を目指そうとして、一発逆転を狙おうとする。よくないね。
そのようなくだらない思想が体を満たしていき、なぜだか心が軽い。いくつかの経験が結ばれて線や面となっていいかんじに形成されていた。読書もそのひとつだけれど、それが全てではなかった。
アンナカレーニナの下巻を読んだ。結局アンナは自殺を選んだ。不倫をして、それでも子供は引き取れなくて、離婚もちゃんとできなくて、不倫相手とはあまりうまくいかなくて、なんだか寂しい。それら全てが彼女を不幸にした。不倫された夫もかわいそうだけどそれほど取り上げられなかった。アンナは何を求めていたのか。彼女自身もわからなかったのではないか。不倫相手とうまくいって、離婚もちゃんとできて、子供も引き取れて、オールオッケー。そんなうまいことあるわけがなかった。私が望むことすべてをかなえるなんてできないんだわ! そうだね。
リョーヴィンはなんかうまいこといった。結婚して子供もできた。でもやっぱり人間とは何かとか小難しいことを考えて、途中で自殺も考えた。でもしなかった。なぜか。
リョーヴィンは、私とはなにものであるか、なんおために生きているのか、ということを考えると、その答えを観出すことができなくて、絶望におちいった。しかし、もうそれを自問しなくなった時には、私とはなにものであり、なんのために生きているのかということも、なにかわかっているような気がした。というのは、彼はしっかりした態度ではっきり行動し、生活していたからである。
p451
しっかりした態度ではっきり行動し、生活した。つまりはまっとうに生きたのである。最終的にかれは神の存在に感謝して終わる。ハッピーエンドである。神というのは善そのものであって、そこに理由なんてない。まっとうさそのものである。私はあまり神を気にしたことはないが、神を生活の基盤におくことでいい感じになるのかなとは思う。なぜか。
神とか道徳的とか宗教的とかそれらの言葉は普遍的なルールを意味している。気がする。いままで何十億という人間が意識した「こうするといい生活がおくれるよ!」というTipsをまとめたものだ。みんなの知恵袋なのだ。それを取り入れれば生活が捗らないはずがない。やっぱり神はいだいだなあとおもった。
そういう意味で考えると最終的にリョーヴィンが神に答えを見出したのは正解だったのかもしれない。
そんな本だった。
- 作者: トルストイ,木村浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1998/03
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