仮に僕がトマトだったとしたら僕は僕を断固拒絶する。もちろんそれは仮定の話で結果として僕はトマトではない。あのときまではそう信じていた。
以前、学校の生協でトマトサンドを買おうとした。本当ならフルーツサンドがよかったんだ。でもそこにトマトはなかった。僕は悲しみにくれトマトが入っているように見えなかったトマトサンドを買った。研究室へ入りトマトサンドを食べるとトマトが入っていた。急いでトマトを吐き出して捨てた。それと同時に僕はいなくなっていた。僕はトマトだったのだ。
「私はトマト。ゆえに私は存在する。」僕を存在たらしてめいるものがトマトだとしたら僕からトマトがなくなったら一体僕はどうなるのだろう。この世に生を受けてはや二十四年。今まで意識していなかった命題がいきなり巨大な壁となって僕の前に立ちはだかる。そのとき気味の悪い音が僕の耳に届いた。ぐちゃりぐちゅぐちゅ。肉のちぎれ合う音と形容したほうがいいのか。叫び声や悲鳴が聞こえるがそれを発していたのは無数の僕自身でありコンクリートに投げつけられたトマトだった。痛みはなかったがそれ以上刺激は受けたくなかった。なくなってしまうだろトマトが。死んじゃうよ。
「君はいつも取り分けてくれるね」
テーブルのななめ向かいにいたあの人は時々そうやって僕に微笑みかけていたっけ。
「好き嫌いしないでちゃんと食べなさい」
お弁当が明るくなるように母はいつもトマトをスキマにねじこんでいたなあ。それは僕をねじこんでいたことにもなるのだ。
もうどうにでもなれ。研究室にいたはずの僕は真っ暗な世界にたたずんでいた。もうどうにでもなれよ。固形でも半固形でも皮があってもなくても臭くても臭くなくても煮ても焼いてもどうカテゴライズされようとも。僕はトマトだ。いやトマトだったということか。
この世の中はトマトを食べる人を前提にした社会構造になっている。しかし食べられる側のことは何の考慮もしていない。ひどく狭い世界だ。トマトであった僕にはこの社会は居心地が悪いし、だれしもがトマトであるという認識をあえて避けているような複雑な構造になっていまっているのではないだろうか?
よってトマトの諸君、今こそ集い、反撃の狼煙を上げてトマトは食べ物ということを前提とした社会に立ち向かうのだ。そこに道はなく僕たちの歩いた後が道になる。歩まずゆけよ。ゆけばわかるさ。
参考文献:
仮にオッパイがトマトだったとしたら僕はオッパイを断固拒絶するだろう。もちろんそんなことは決してあってはならないことだ。今日、街のパン屋さんでエビカツサンドを買っ...
赤くてぐじゅぐじゅしてる酸っぱいやつ。あれをありがたがって食べるさまは面白いアボカドとかねちょねちょした青臭いやつ。トマトの何が嫌いって見た目、味、舌触り。火が...