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【再読】インド仏教によると、僕はハゲないらしい/「インド仏教の歴史」【感想】

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 ときおり現実に引き込まれそうになる。無明のうずに巻き込まれ、地に足がついてしまい、しくしくと動す。今日も電車の駅員は元気にさよならばいばいを歌っている。サラリーマンは両手をだらりと下げて、首を倒してスマホをいらう。いつもの風景だ。ここに強烈な重力を感じており、さいきんはココカワを脳内でリピートしないと倒れそうになる。

 全てのものから解き放たれたい。あらゆる苦から抜け出して自由になりたい。そんなことを人間はずっと前から思い描いていた。インド仏教には、そのような自由を求めた人間の叡智が詰まっている。始まりは釈尊からであるが、時代とともに思想は細分化し、各々で言い争うようになった。大乗仏教は部派仏教を小乗仏教とよんでバカにしていたこともあった。しかし、ながら彼らが求めるものは常に一つである。ベストを探しているのだ。

 大乗経典の思想は大きく分けてふたつ存在する。最高の真理(勝義諦)を求め続ける中観派と、この世の最小単位、すなわちアビダルマの再構成を目指す瑜伽行派だ。今回は中観派の思想を伝えるに留めておく。

 なんといってもナーガールジュナである。中観派の祖であり、学派の根本聖典である『中論」を書いた。彼の考えを完全には理解できなかったが、「最高の夏をつくろうぜ!」という勢いは伝わってきた。とんこつラーメンとサングラスが似合うんじゃないかな。関係ないけど。

 圧倒的なゼロ。全てを否定しなくては真理には到達できない。なぜなら、僕らが目にしているもの音に聞くもの、質感や匂い味という感覚は全て間接的であって、世界に直接触れていないからだ。あらゆるフィルターをゼロに帰さないと、僕らは何者かになってしまう。それはあまりよくないことだ。空。空でいよう。ブルーのスカイは涅槃の入り口。

空は、空をも空じた空空へと透脱されなければならない。一面的な空を徹底して超えた、畢竟空へと脱落されなければならないのである。

 空であるためには、「私が〜する」なんて使ってはいけない。なぜならその言葉にはすでに主語と術後が存在してしまうからだ。主従関係、因果関係ができあがるといつまでたっても人間のままだ。だからこそ、ナーガールジュナは時間の直線性を真っ向から否定し、運動の運動性をもみくちゃにした。

 「じいちゃんはハゲ。父さんはハゲじゃない。だから僕はハゲる」。そんな因果関係は全く存在しない。存在してはいけないのだ。

 全てを否定したらなにも残らないのではないか? と疑問に思うかもしれない。しかし、そこに涅槃は存在する。全否定の先にゴールは確かにあるのだ。ナーガールジュナは言う。

 (涅槃とは)一切の知解(獲得・対象的認識)が滅し、戯論が滅して、寂聴なる(境地)である。ブッダは、どんな教えも、どこにおいても、誰のためにも、説かなかった。
(第二十五章−24)

 生え際が後退してきたことも、抜け毛が増えて来たことも、これすなわち識のなす業。身の一切を空にすれば、体毛などという観念も無に帰すのだ。

 

インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)

インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)


【書評】量子論を唱えるブッダ/「インド仏教の歴史」【感想】 - マトリョーシカ的日常

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