マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

明日誕生日なので何かくださいって話と、僕の生い立ち。

id:kyokucho1989 のまとめ:

明日は僕の誕生日です。何かください。→ほしいものリスト

生い立ち

 明日で二十五歳になる。ちょうどいい機会なので、僕の生い立ちについて話そうと思う。

 僕は田舎で産まれた。どのくらい田舎かというと、それより奥には山と川しかないよってくらいの田舎だった。人口も少なく、そこに暮らす人々は小さな畑を耕したり、米を作ったりして生計を立てていた。僕の親も何かして働いていたのだろうけど、どんな職業だったかは一言では書けない。ある時は山へ入り木を切り、またある時は地域のこどもたち向けの学習塾を開いていた。習字教室の先生もしていた。いま思うと、そのころから親はナリワイをつくって僕を養っていたのだ。感謝感謝。

 小さい頃はひたすら秘密基地を作っていた。よく遊ぶ友達が二人いて、彼らと山へ入ってはそこらへんの細い木を切り倒して、ビニールテープで囲って「きょじゅうく」を建設した。晴れた日には、家からトランプを持ってきてそこで遊んだ。近くの川で魚を釣って食べたこともあった。時折「たこく」との「せんそう」も勃発したが、僕らの秘密基地はなくなることはなかった。それどころか月日が経つごとに基地は増えていった。建設の回数が増すごとに基地のクオリティも上がっていった。最終的には「もうこれ、住めるじゃね」と言えるものが出来上がった。

 あのころ作った基地は今どうなっているのだろう。もしかするとまだ残っているのかもしれない。

 運動は別段好きではなかった。中学生になったらコンピュータ部に入る予定だった。しかし田舎の学校にはそんな文化的な部活は存在しなかった。なくなくサッカー部に入部した。サッカー自体は嫌いではなかったが、顧問の先生が怖かった。僕はMFとしてFWとDFの間をとりもつ役目を担っていたが、「前へ出ろ!」「下がれ!」という先生の声にいつもびくびくしていた。

 しかし、運動は好きではなかったはずなのに、高校でも大学でもどういうわけか文科系の部に入らなかった。剣道、少年野球、サッカー、弓道。体育でやった卓球とバレーと水泳。親とよくやったバドミントン。気がつくと球技は一通りできるようになっていた。

 高校はめちゃくちゃ楽しかった。電車で片道一時間と通学に時間がかかったけど、数学や物理は面白かったし、弓道部の活動にものめり込んだ。弓道の場合、戦うのは他人ではない、的でもない。自分だ。立ちへ入ると、自分と弓と的だけで構成された世界があった。とてもきれいだった。全然上手くなくて地区予選でぼろ負けするレベルだったが、弓道が大好きだった。また、部活の仲間ともワイワイ楽しくやれた。その中の数人は今でも連絡をとりあっている。

 一人暮らしがしたかったので、大学はど田舎だった地元を離れて、他県の大学へ行った。大学名からして都会のイメージに溢れていたので、うきうき気分で受験しに行った。キャンパスは田舎にあった。ちょっと失敗した。試験自体はとどこおりなく終わり、無事に合格した。

 大学生になってからは遊んだ記憶しかない。理系の学部だったのでレポートは出るが、「徹夜しなくちゃ終わんねえよ!」という量ではなかったのだ。サークルはまったりした雰囲気のスポーツ系サークルに入った。週二三回の活動で、学生生活に必要な適度な運動を補った。部員はいい人が多くて居心地はよかった。

 アルバイトは新聞配達をやっていた。朝は強かったし、深夜の誰もいない空間を一人占めしている感覚が気持ちよかった。配達終わりに飲むコーヒーの味は格別だった。コーヒーが好きなったのはそのころかもしれない。

 研究室に配属されても暇だった。運良く忙しくない研究室に入れたからだ。そこは学部時代の機械機械した雰囲気はなく、そこはかとなくデジタルだった。鉄を一ミリも削らなかった。そのかわりコードを書いた。プログラミングは楽しかったので、研究室の誰よりもソフトの使い方に詳しくなった。

 あるとき、研究に煮詰まっていたら、教授に「コードは紙に書け」というアドバイスをもらった。実際に書き下してみると頭が整理されていくのが分かった。再度PCに向かって打ってみると無事に動いた。教授はすごい。



 それから書ききれないほどたくさんのことが起こった。あれらを文章化する能力は僕にはまだない。またいづれ書く時がくるだろう。しかしこれだけは言える。

 僕ははてなブログをはじめた。そして今も書き続けている。



 なんかください。

 ほしいものリスト

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