朝起きたら巨大な虫になっていた
今日は有名すぎるカフカの小説を紹介する。起きたら虫になっていた主人公グレーゴルと、彼の家族との関わりを描いた物語だ。家族は当然ながら彼のその姿に怯え、戸惑い、距離をとるようになる。グレーゴル自身も変わってしまった自分に対して苦しみ、憎み、そして嫌悪感を抱く。
作者のカフカは第一次世界大戦直後にこの作品を書いた。カフカ本人は創作に時間を書けることができなかった駄作としているが、なぜこんなにも長い間多くの人に読み継がれているのか。それは時が流れても決して変わることのない普遍性がこの作品にあるからだ。
文庫で百ページに満たないので読みやすい。
ひきこもり?うつ病?
虫になってしまったグレーゴルは当然ながらこれまで通りの生活を過ごせない。仕事も辞め、外出も出来ず、家族との会話も満足に出来ない。(天井を這うことができるようになったり、腐りかけた食品が好きなったりするのは虫ならではの表現で、ちょっとおかしかったりする)
この状況を現代に置き換えると、ひきこもりやうつ病をわずらわった人にあてはまる。実際のところ、虫になる以前のグレーゴルは外交販売員というストレスフルの大変な仕事をしていたようでで、文中にも仕事が辛いという描写があった。
ネット上のレビューでも多くの人がこのテーマを扱っている。ひきこもりやうつに似ている、かわいそう、残念だ、救えない。
いや、ちょっと待ってよ。確かにこの主人公の状況は悲惨なもので、悲しい結末を迎えてしまうが、もっと本人が努力できたのではないか。もっとこう、なにかさ。
虫から人間に戻れなかったわけ
ある日突然、虫になってしまったのだから、突然人間に戻っても不思議ではない。それなのにグレーゴルは物語の最後まで虫のままだった。なぜか。他人に頼らなかったから、自分で動かなかったから、僕はこの二点を理由に挙げたい。
彼に友人や恩師、先輩後輩など相談できる人がいるなら、躊躇せずに頼ってしまえばよかった。「僕、虫になってしまったんです、どうしましょう」「あぁ、俺も若い頃一時期なってたよ、あれ辛いよなー」そんな会話が生まれるかもしれない。直接の解決策が生まれないかもしれないが、誰かに話すだけで胸のつっかえがとれることはよくある話だ。
また、虫のままでもできることはあったはずだ。家の掃除や手伝いも出来るだろうし、部屋を出て自分から家族とコミュニケーションをとることも出来た。虫の言葉は理解しにくいかもしれないが、そんなときは行動で示せばいい。
「こいつがわしたちのことをわかってくれさえしたら」と半ば問いただすように父親が言った。妹は泣きながらはげしく手を振った。そういうことはありえないという意味なのである。
虫になってしまったグレーゴルのことが理解できず、怒り、悲しみ、諦めなどの感情が混ざり合った父親の発言。
自分から動けばこんなことには決してならない。希望を失ってはいけないのだ。
今を生きる虫へ>もっとあがけよ!
現代に生きる虫たちへ、僕はもっとあがけよと言いたい。カフカの時代と今の時代はいろんなものが異なっている。コンビニも出来たし、ケータイもあるし、パソコンもある。ネットを使えば世界中へ自分の意見を発信できる。アフィリエイトやオークションを利用して家にいながらお金を稼ぐことも出来る。やろうと思えば何でも出来るのだ。
がむしゃらでもしゃにむにでも、ちょっとずつでもマイペースでもいい。とりあえずやってみることが大事だ。そうして何ヶ月か経って、ふと鏡で自身を見たとき、きっと人間にもどった自分を発見するはずだ。
おわりに
このグレーゴル兄ちゃんは本当に妹想いのいいやつだった。妹を音楽学校へ行かせるために自分の給与から貯金していたのだ。妹さんも始めは兄の世話を頑張るのだけれど、次第に疲れが出てしまって……。
何度読んでも考えさせられる本だ。
冒頭の普遍性に触れていなかった。ひとりの人物が、一定の外的、内的刺激によってある日突然精神面に支障を来すという普遍的な現象がある。本作はこの内面の変化に併せて、虫という外見の変化を起こすことで、周囲の対応をより大きくし、読者にも分かりやすいよう工夫している。
主人公が落ちぶれてしまうという点では車輪の下とも関連性があるかも。
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