マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

何度読んでもくっそわからないアリストテレスと実体 / 形而上学

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 非線形な朝だった。およそすべてのことがあきらかになるはずだった。私はただじっと立って、つぎにくるべき電車を待っていた。先ほど買ったコーヒーは手の中で大人しくなっていて、周りも腐るほどしずかだった。

 アリストテレスの形而上学を読んでいてる。読んでいるのかわからない。文字がただ頭上を通り過ぎているような気がする。彼は多くの著書を残していなくなった。なにから書き始めればいいだろうか

1.アリストテレスの生い立ち

 彼は紀元前384年、医者ニコマコスの息子として生まれた。スタゲイロスという場所で生まれた。どこらへんなのだろう。
 父と母は早く亡くなり、親戚の人の世話になった。17歳でアテネに送りだされた。上京である。アリストテレスはプラトンの学校、アカデメイアに入学した。それから学生だったり教師として過ごした。紀元前347年にプラトンが死に、そのあとを甥のスペウシッポスがそのあとを継いだ。その後アリストテレスはアカデメイアを離れた。 その甥と性格が合わなかったのか。なんかいやなことがあったんだろうね。
 その後アッソスへ引っ越した。仲間たちとアカデメイアの分校のようなものを開き、そこで三年間研究と講義と執筆にあけくれた。
形而上学の第一巻はこのあたりに書かれたと推測されている。

2.「形而上学」の意味

 形而上学というのは造語であって、本当の書名は「ta meta physika」と呼ばれている。意味は「自然的なものどもの次のものども」である。この本はアリストテレス全典のうちの自然学のつぎに配置されていることから、こんなふうに呼ばれている。なんでへんてこなことばが使われているのか。易経の繋辞伝の「形而上者謂之道 形而下者謂之器」からとったものらしい。形而上なるものは道といい、形而下なるものは器という。ってかんじ。

 アリストテレス自身はta meta physikaのなかでそれらを明確に定義しなかったが、その時代以降の人々には「自然を超越したもの」と考えられた。イデア的なあれ!と言われればそうだが、もしかしたら少しことなるかもしれない。

3.形而上学にはなにが書かれているのか

 一体なにが書かれているのかよくわからない本だった。というのも、この本はアリストテレスがはじめから「形而上学」と銘打って書き出したものではないからだ。読んでみても巻ごとに話の流れがぶつぎりだったり、用語集のようなものが挿入されている。悪く言えば一貫性がない。彼がいろんな場所でいろいろ考えながら書いたのかもしれない。
 ただ、原因と存在についてよく書かれていた。

3-1.原因は4つある

 冒頭で「すべての人間は生まれつき知ることを欲す」と記されている。人は知りたい生き物であり、知識を収集することに喜びを感じる。知識とはなんであるかというと、現象の原因を知っていることである。単純に経験に基づくだけでなく、もっと根本的な理解をとらえているやつはつよい!強いらしい。では原因はなにか。4通りあるらしい。

(前略)原因というものにも四通りの意味がある。すなわち、我々の主張では、そのうちの一つは、物事の実体でありなにであるか[本質]である、(中略)つぎにいま一つは、ものの質料であり基体である。そして第三は、物事の運動がそれから始まるその始まり[始動因としての原理]であり、そして第四は第三とは反対の端にある原因で、物事が「それのためにであるそれ」すなわち「善」である。

岩波文庫 形而上学 (上)p31


 第三と第四はそれぞれ対になっているようなもので、わりと理解しやすい。ものごとの始まりの原因と、動いているやつらが向かう先にあるそれである。目標みたいなやつ。本質と質料についてはすこしめんどうくさい。本質とは数式のことである。目に見ることはできないが、この世界を支配する法則のこと。つきつめると数そのものになる。質料は物体の構成要素、つまりは原子とか電子とかクオークとかそんなものである。

 アリストテレス以前のひとたちは一つだったり二つだったりは原因を理解していた。「だが、おれはちがうぜ!」そんなかんじでアリストテレスは4つの原因をまとめていた。

3-2.存在も4つある。いや2つある。

 そんな流れでいって、アリストテレスはなんか知らないけど数を扱うピタゴラスたちを目の敵にしていた。「彼らは数のみを扱うが、おれはそれを含めたより大きな枠組みの『存在』について語っちゃうぜ!」とやっていた。存在はなにか。そこでも4つほどあげていた。だが、最初の二つは不要なもの、本当の存在ではないらしかった。そういうわけであとの二つが残った。

  • 述語形態としての存在
  • 可能的存在と現実的存在

である。

 三つじゃねーか!

3-3.やっぱり実体(ウーシア)が一番大事だよ

 こっからもう話がややこしくなって、解説を参照しながらじゃないと読み切れなくなってきた。述語形態の中に実体が含まれていて、結局は第一義的存在のすなわち実体(ウーシア)が一番大事だよ、という話になっていた。アリストテレスは実体について、それがどのようであるかは示しているが、具体的に何であるかは示していない。本の筋書き通りに読み下していく。

 一般に実体として認められているのは、本質・普遍・類・基体のようであった。しかし、彼は「やっぱ本質だな!」という感じで実体を本質としていた。本質は形相のことでいわゆる数である。こっからわりと大事なところになっていた。プラトンはイデアというすーぱーぜったいすごいものがあるんだよ!と言っていた。イデアは唯一無二の存在で、みなに対してひとしくある!と。しかしアリストテレスは「ちょっとちがう」と考えていて、実体という概念を語っていた。

 イデアとかいうものは、独立性も個別性もない。考える人やものによって状態は変わるよ!!!

 真の実体は、質料を一定の存在状態にあらしめるところの原因すなわち形相である。

 なるへそ。

4.おわりに

 2000年以上も前の作品なのに、形而上学がこれほど読まれているのはなぜだろうか。きっといつの時代にもある普遍的なものをとりあつかっているからなのだろう。私はこの本のテーマは「実体とはどのようなものか」だと思う。プラトンの学校に通いながらアリストテレスはイデア論を勉強した。そうして大人になって「なんかちがうわ」と思って、自分の考えをめっちゃ書いた。たどりついたのがこの実体なのかな。

 哲学は読めば読むほどわからなくなる不思議な本だ。だから形而上学を読むのはここらへんで区切りをつけたい。まだまだ読みたい本ややりたいことがたくさんある。今月は技術書典用の原稿を書いたり、M5stackで創作したり技術士の勉強をしたり、本を読んだりしたい。たのしそうな日々だ。落ち着いたらほかの哲学書をとりあげよう。アリストテレスとデカルトの間あたり、ローマ帝国崩壊あたりに出た哲学書でもあればいいのだけれど。

形而上学〈上〉 (岩波文庫)

形而上学〈上〉 (岩波文庫)