Lake Bled, by Ales Krivec | Unsplash
考えを書き留める必要がある。それらを私のなかにとどめておくと、消化不良を起こしてしまいあまり体によろしくない。ちぐはぐな悩みや意味のない妄想などを現実世界に天日干ししておかなければならない。このごろは仕事のことで割と悩んでいるが、結局は選択するのは自分であった。考えるのも自分であった。それだけわかれば十分だ。これは私の人生なのだから、すべてが自分の意思でどうとでもなる。
ヒルベルトはラッセルのパラドックスを解決するために無矛盾性と可解性を用いた、と前回書いた。しかし、今回は無矛盾性の話しか追えなかった。後者はまたどこかで会えるだろう。ヒルベルトの考えは数式がたくさん含まれていたので意味がわからなかった。解説者によると、彼は帰納法で帰納法の無矛盾性を証明したのだという。帰納法とは最初と途中とその次がOKなら、あとは全部OKという話だ。「生まれた時は男。昨日は男、今も男。だから私はずっと男」という具合に。しかし、これをポアンカレは批判した。証明の道具に不安定な足場を使用しているからである。帰納法を証明するならば、帰納法は使ってはいけないのだ。
間違えているかもしれないものの正しさは、そのもの自身によっては保証できないのである。
「不完全性定理」p185
その後、ヒルベルトは数学基礎論の場からは離れ、物理学や解析学に専念していた。そうしてだいぶ時間が経ってからポアンカレに対して回答した。そのときにはポアンカレは亡くなっていた。
ヒルベルトが離れている間、数学基礎論ではラッセルがプリンキピアマテマティカを書いた。ラッセルは自身が生み出してしまったパラドックスを解消するため、自己参照を禁ずることにした。自分で自分のことを言及するのはダメにしよう。そういう話だった。このことを可述的理論と呼ぶが、残念なことに数学では非可述的理論が用いられているものが多かった。ラッセルは公理を仮定した。自分ルールをつくったのである。公理を仮定したことで、ラッセルの理論は弱くなってしまった。
私が認識する正しさがいくばくか存在している。しかし、それはまったく保証できない。私は間違えているかもしれないからだ。まったくひどい話だ。なにがよくてなにがダメなのか分からないではないか。それでも一日は流れていくのだから、私は公理を仮定したい。自分の核となるものをなにかつくっておきたい。
本を読む。文章を書く。ものをつくる。こういった行為で飯が食えていければいいなと思う。
- 作者: ゲーデル,林晋,八杉満利子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/09/15
- メディア: 文庫
- 購入: 17人 クリック: 122回
- この商品を含むブログ (65件) を見る