マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

インド象の思考と論理哲学論考

 未知の本にアプローチする際に大切なのは、本を読んではいけないことだ。読むために読まないとはこはいかに、となるかもしれないが私の知ったことではない。あなたがその文章を知らないとなると、書かれているそれは文字以前に記号でしかないので読もうにも読めないはずだ。日本語であっても例に漏れない。

 
 ならばどうすればいいのかというと、私はページをめくること、索引を開くことをすすめる。ページをめくるのに頭は必要ないし、風がいいぐあいに吹いてくれれば指先さえ動かすこともなくなる。楽なものである。それに何を見いだすのか教えてほしい。

 訳の分からない本にはだいたい索引がついていて、訳の分からない単語と数字がたくさん並んでいる。重要なのは楽しそうな言葉があるかどうかと、出演回数が多い単語を見抜くことである。ちなみにテレフォンショッキングに最も多く出演した人は和田アキ子であり、実に22回を数える。たくさん出てくるというのはそれだけタモリさんに寄与したことになるので、重要なファクターをあの頃はふたりともなぜかしら世間ではハッ!しているのだろう。

 あとは巻末の解説を読むこと。それが一番良かったりする。

 『論理哲学論考』も解説から攻めることにした。本文から読もうとしたが、通し番号のついた箇条書きで語るスタンスだったので、身を引いた。分かりづらい。そういえばFillip.K.Dickのヴァリスもそんな風に書かれていた。あれはスタイリッシュでカッコイイと思うけど、想像以上に頭に入ってこない。

 「私はどこまで考えることが出来るか」これが本書のテーマである。思想の限界を探る旅だ。しかし、どこまで考えられるかを考えるというと、矛盾が生じ、根本的な困難に出くわす。そういうわけで、筆者は思想は言語によって決まると考えて「どこまで語ることが出来るか」と問いを再設定した。これは政治家のように自分の立ち位置をわきまえ、秘密にすべきことと公開することの堺を知る、ということではない。語るとは表現することであり、言語化できることは秘密にせずすべてを披露することだ。

 どれだけのことが考えられるか。これは可能性を問う問題である。可能性とは現実に起こっている事象も含め、考えられる全ての事象のことだ。まず、世界は事実の総体であってすでに決定されている。可能性はどこにも存在しない。それを拓くにはまず事実を対象へと分解し、有意味なものへ再構成しなくてはならない。分解と再構成には現物とは異なる代理品、つまりは像が必要になる。そうしないとあっちへこっちへ動かせない。そして、きわめてお手軽な像が言語である。

 思考をさぐることは可能性を追求することに通じ、可能性の如何は像によって左右される。像の主だったものは言語である。こうしてイコールではないが、思考と言語をつなぐことに成功した。解説はまだ読み切れてないけど、文字数も多くなってきたので今日はこのあたりで終わりにする。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)