いいかげん、純粋理性批判の上巻を読み切らなければいけない。残業が多かったとはいえ、書評に一ヶ月かけてしまうのはやはり遅すぎる。今回は前回の続きで、判断力の項から書き始めよう。
判断力というのは、ルールを基にそれが今のケースに適用され得るか否か、を判断する力である。どんなに偉大なルールがあっても、それを使うのは最終的に人間にゆだねられる。この判断力というのはくせ者で、なかなか後天的に鍛えることが出来ない。判断力の項は三章に分かれる。ひとつめは純粋悟性概念の図式について、ふたつめは純粋悟性のすべての原則、そして三つ目が悟性仕様の限界についてである。
一般に、純粋悟性は概念はいかなる直感からも見いだされることはない。たとえば「りんご」という単語を目にすると、私たちは丸く赤いあの果実を連想する。そしてそれが「果物」とか「食べ物」のジャンルにあてはまることが分かる。しかし、りんごから量や質、関係などの純粋悟性概念へ飛ぶことはありえない。それでも私たちは概念を通じてものごとを認識する。図式を用いて。
図式とは単なる絵ではない。それを絵として表現した途端、それは図式ではなくなる。図式はわれわれの頭の中で展開される時間空間である。壁掛け時計がうちつけられた、広さ無限の部屋だ。ここでは何をやっても構わない。全てが自由だ。
つまりこの先験的時間規定が、悟性概念の図式として、現象をカテゴリーのもとに包摂する媒介的な役目をするわけである。
さきほど広さが無限と書いたが、重要なのは空間ではなく時間のほうだ。図式は時間の経過や総量や関係によってもろもろが決まる。
腕時計をちらと見た。文字盤はそれらしい時刻を指していた。あちらの方から大彗星ショッカー (id:noabooon)さんが姿を表した。せっかく渋谷に来たのだからと、いろいろと話すことにしていたのだ。彼は黒っぽいサングラスと黒っぽい服を身につけていた。写真で見ていた印象とは少し違った。でもだいたいあっていた。これから先の人生、普通に生きていればこのような人と出会うことはまずないだろう。そんなことを思った。悪い意味ではない。
いくつか質問をした。はてなブログを始めた経緯や今の占いの仕事について。なぜ東京に来たのかを説明すると、「自分探しの旅ですね」と言われた。確かに自分を探していた。せっかくなのでタロットでいろいろと占ってもらった。占い以前に、自分を誰かに客観的に評価されるのは久しぶりだった。アドバイスを頂くと、なるほどな、なるほどな、なるほどなるほどなるほどな、と思った。
今まで、答えは全て自分の中にあると信じていた。そしていまでも信じている。しかし、答えを引き出しくれるのはたいがいは他人だ。自己が抱えている想いを具体化してくれるのは他人だ。それに気づくまで二十五年かかってしまった。もっと人に会おう。たくさん話をしよう。この世界はわくわくで満ちあふれている。
- 作者: カント,Immanuel Kant,篠田英雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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