マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

映画インターステラーとショウペンハウエル『知性について』

インターステラーを観た。

 映画館に行くのは五六年ぶりで、半券がタッチパネルで買えるようになっていたり、待合室に大きなディスプレイが置かれていて驚いた。少し待ってからシアターに入った。僕の後から何人かの人が入ってきてめいめいの座席に座った。家族連れはおらず、年寄りやカップル、高校生がいた。それだけだった。

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 インターステラーは宇宙を題材にしたSF映画だ。舞台は近未来の地球。異常気象が続き、植物が枯れていき人類は食糧難に陥っていた。農業を営んでいた元エンジニアのクーパーは、あるとき家の本棚からのメッセージに導かれ、解体されたはずのNASAへたどりつく。そこでは人類の移住先を見つけるべく、新たな惑星を探すプロジェクトが進行していた。クーパーは家族と別れ、宇宙へ飛び立った。

 スタッフロールが全て終わるまで、僕は席を立つことが出来なかった。スクリーンの向こうから現実世界に帰ってくるのに時間がかかったからだ。良い本を読んだ時の読後感と似ているが、これほど強烈なのはちかごろなかった。いい映画だったということだ。

 作中で同じ詩が何度も引用される。

穏やかな夜に身を任せるな。老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。怒れ、怒れ、消えゆく光に

 調べると、これはディラン・トマスという人の作品らしい。Do not go gentle into that good night by Dylan Thomas - Poems | poets.org

 この終わりゆく日というのが地球が滅亡する日になるのなら、インターステラーと内容がマッチする。冒頭でクーパーの父親とクーパーが家の軒先で語るシーンがある。昔はよかった。テクノロジーや発明が毎日起こった。「毎日がクリスマスだった」と。時は経ち、今はだれも新しいことをやろうとしていない。誰もが終わりゆく地球を眺めるだけだった。穏やかな夜に身を任せていた。

 エンジニアは必要ないと言われていた現代で、クーパーはエンジニアであることを貫き通した。冒険の中でどんなに絶望的な状況にあっても、しっかり頭を動かしベストな判断を下していく。穏やかな夜に抗い続けたのだ。あまりにもピンチが多すぎて、「このまま映画終わるなよ、終わるなよ!?」と何度も不安になったりしたが。

 常に新規性を持っていたい。何も変わらずに終わるのはいやだなと思った。それこそ意志の力なのか。

意志

 半ば強引ではあるが、前回の話のつづきをしよう。知性は感受性だったが、意志とはなんなのか。ショウペンハウエルは意志とは物自体で、それ以外は付属物だとしている。

 これに反して、物自体であるのは、もっぱら意志のみである。従って意志こそ、現象のあらゆる属性の創造者であり荷ない手なのである。ひとは、道徳的な諸性質を意志のせいにしてあやしまない。けれども、認識とその力、すなわち知性もまた、意志の現象に属し、従って間接的に意志に所属するものなのである。

 僕らは事実をそっくりそのまま観測することはできないと考えている。何事にも誤差が入り、真の事象を手に入れることは出来ないのだと。しかし、それは正しい真の事象ではない。意志というノイズも含めて事物が存在する。だから、人によって物自体は変わるし、正しさも違う。

 そろそろショウペンハウエルは終わりにしよう。来月は別の何かを書くよ。