皿洗いと知性
深夜の皿洗いは立禅である。昨日リビングのホットカーペットの上で寝てしまった僕は、爛々と光る蛍光灯のもと午前二時に目が覚めた。体の節々の痛みに耳をかたむけながらそっと起き上がり、ほとほと台所へ向った。夕飯の食器がまだ残っていたのを洗うためだ。目が明るさに慣れていないため、電気をつけずに蛇口をひねった。お湯と水のバランスをとりながらスポンジに洗剤を付けて若干泡立てる。はじめにコップを洗い、洗い終わった箸やスプーンをその中へ入れていく。単純な作業だ。何も考えない、いや考えることが出来ない。もう少しレベルアップすれば皿洗いをしていたことすら忘れて「妖精のせいだ」と勘ぐるかもしれない。いつだかTVでやっていた。最後にフライパンをごしごしふいて終了した。僕はベッドへ入った。
皿洗いの場面で知性は存在せず、そこには肉体とぼやけた感覚があるだけだ。そう感じていたが、ショウペンハウエルは知性は感受性にほかならないと言う。
「知性はその客観的表現たる脳髄およびこれに付随する感覚器官と同様に、外来の作用を受け入れるための、きわめて高度に発達した感受性にほかならず、われわれに本来固有な内的本質をなすものではない」という結論に到達する。
知性に特別すぐれた本質がそなわっているわけではなく、彼らは所詮アンテナの役割を果たしているだけなのだ。言い方を換えて「センサー」と表現したら、人間のCPUはどこにあるのだろうと考えてしまうが。それが、著者の言うところの意志であってもう何が何やらわけが分からなくなって来た。わけがわからない。
仕事と知性
仕事の話でもしよう。僕の仕事はわくわくさんのそれと大して変わりはない。「わくわくさーん、今日はなにをつくるのぉ?」「今日はね、これをつくって遊びます!」会社のデスクで紙とマジック、セロハンテープを展開して工作をしていく。他の社員はどこかへ電話をかけたり、会議に出たり、資料をつくったりしている。とても忙しそうだ。僕のやっていることに意味はあるのだろうか、少し不安になる。しかし、上司が「id:kyokucho1989! がんばってね!」と激励の言葉を放り投げてくるので、「はい、わかりました」と手を動かす。時々試作品ができあがるが、本当の完成はいつになるのか知れぬ。
仕事に意味を見いださなくてはいけない。確かに、手先が少しは器用になったが会社の売り上げに貢献しているわけでもなく、「もしかして、私ってお荷物」という不安から抜け出せない。言い過ぎたかもしれない。そこまで切迫していないが、完成された夕焼けを見ながら帰宅するときに「このまま一生この仕事をするのかな、大丈夫かな」と、漠然とした不安を抱くことがある。知性を発揮すれば問題は解決するだろうか。いや、おそらく感受性を鋭敏にしたところでノイズがより大きくなるだけで、僕自身の成長()には寄与しない。
意志を持たなくてはいけない。というわけで、次回は意志の話を書こう。
ショウペンハウエルを借りて、むだ話がしたいだけだった。そういうことだ。
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