目的のないじかたび
この文章の帰結も考えずにペンを進める事態になった。なにせこの寒気のせいで街角の交差点は全て凍結し、吐く息はその場でパラパラと氷の結晶になってしまうからだ。寒さの中で僕は考えを進めることが出来ない。昔からそれを心地よいと感じており、今も変わっていない。熱いコーヒーで指先を暖める。
わけのわからない本を読むのが好きだ。何も考えなくていいからだ。「これほど難しい本なのだから、理解できなくて当然」というスタンスでページをたぐることができる。昼休み中も大体は本を読んでいて、周りの人は僕を読書家とか勉強家とか、そんな風に見ている、と望んでいる僕がいてそれは単なる妄想にすぎない。くだらない発想は脇へ置く。読書はスマホいじりと何一つ変わらない行為だ。ただ手を動かしてそれらの表象を飲み込んでいく作業。何も生まれることはない。ページの隅にスコアが記録されていけばいいなと思っている。
「道徳形而上学原論」は正真正銘のわけがわからない本だ。カントはこの本を、純粋実践理性批判の予備的研究と位置づけている。目標は、「純粋な道徳哲学を攻究すること」だとか。いったい何を言っているんだ。一度ざっくり読んでみたが何一つ得るものはなかった。これは読者に説明をする前提で本を読み込まないとだめだなと気づき、今月から二週目に入る次第だ。
ただの読書からは何も得られないし、何も生み出さない。いくばくかの知見は活用することによってはじめて価値がある。胸の奥にしまっておくだけでは課金ゲーと変わりないのだ。
今月末に終わればいいなと思う。
善意志について
本の冒頭で、カントは善意志について語る。なんのことはない、めちゃくちゃ良い意志のことだ。もう世界の幸せの半分はそれでできていて、ビックサンダーグレートファイティングスズメバチよりも強い。「善意志は、人間が幸福に値するためにも、欠くことのできない条件をなすもののように思われる」。そんな風に書かれている。善意志は、あまりに素晴らしすぎるのでそれ事態が善だ。その意志をもつだけで、行動にうつすことはなくても善だ。さらに意志が世の役に立つとか、役に立たないとかそんなことは関係なく善なのだ。すごい。
僕はわりと催眠術にかかりやすいほうだと思う。しかし、この話はうますぎる。なんだか怪しい。カントも怪しいと思ったらしく、善意志のなりたちについて調べている。簡単に書けば、「個人的な幸福を求めるよりももっと崇高な行為があるのでは」と考えたすーこーさんらが善意志の観念を生み出したらしい。いや、本当かどうかは分からない。カントははっきり物を書かないため、読み込まないと何を言っているのか分からなくなる。
理性が善意志を生み出す
理性はあやうい。今日も布団の魔力から抜け出すのに理性の力を借りたが、かなりの苦労を要した。やっと床から脱出できた理由はトイレに行くためであり、そこには理性が関与する余地がなかった。物事を動かすのは理性よりも本能だ。そうに違いない。カントも言ってた。それならば、なぜ理性とかいう変なものがあるのか。
理性の真の使命は、何かほかの意図を達成する手段としてではなくて、それ自体善であるような意志を生ぜしめることでなければならない。
理性は善意志を生み出すためにつくられたものらしい。そういう風に解釈しよう。しかし、理性を人類の特権のように思い込んで、「これがあればなんでもできる!」と大股で歩くのはあまりいただけない。人間はもっと謙虚にならなければいけない。地球の表象で生まれて死んでいく。リンゴの皮の見えないゴミつぶのような存在なのだから。
おわり
そろそろコンソメスープが出来上がったころだ。朝食を食べることにする。今度は義務の概念を説明するよ。
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