どこまでも僕
青みがかかった珈琲の空き瓶を貯金箱にしている。月末になると消費モンスターから生き残っていた100円玉を何枚かそこへ入れる。空き瓶はいつまでも空き瓶なので、硬貨を入れるたびにちゃりんと綺麗な音が鳴る。それが近くで叫んでいるツクツクボウシの声と相まってなんともいえない気分にさせる。蓋を閉めると硬貨は瞬間、インテリアになる。僕はいつまでも僕のままだった。
授業のたびに前回の復習をみっちりやる数学教師は嫌いだ。その範囲はすでに知っていることだし、お気に入りのアニメが総集編だったときと似たような気分にさせるからだ。ドラゴンボールZかスラムダンクでも可。かの教師は何度も何度も黒板におなじ文面を書いていく。
「君は君なんだよ、彼女は彼女さ。そして僕は……僕は……僕なんだ」
当たり前だ、何をもったいぶっているんだ。どんなスケールを持ってこようが、我々は我々のサイズでしかなりえない。ログやデータもブイヤベースもそれに等しい。
『知性について』を読んだ。知性とは何なのかが書いてあった。よく判らなかった。判らないということが判っただけでよしとしなければならない。知性はどこまでも秘密なのだから。哲学をする時には何かしらの前提を立てないといけない。それがなければ思考は足のない椅子であり、いわゆる一種の座布団になりゆったりくつろげてしまう。
足の作り方は客観的手法と主観的手法があるが、どちらかと言えば客観的な手法を用いたほうがいい。なぜならそれは普遍性を持っているし、1+1=2になるからだ。明快! 一方で主観的な方法では、「たかしくんは子供だからりんごを五つも食べられないよー」などとほざく。ひどい。
ところが、知性は哲学をするにはとても不向きなものだ。なぜなら知性はそれ単体では存在し得ないからだ。真空中を走る光がその存在を誰にも知られないのと同様に、観測者がいない限りかの運動を認めることができないのと同様に。そうなると、当事者がこれ!と言えば知性はこれになってしまう。世界がもしあなた一人しかいなければ、白鳥を黒といえばそいつは黒くなる。
すなわち、自我がまず自己自身を、そしてそのあとで非我を定立する、とフィヒテが説いて以来、定立するということは創造し産出する——要するにどういう風にするのか判らないが、とにかく世の中に出す——という程の意味になり、こうして、ひとがわけもなく現実存在として承認し、他人にもそう信じこませたいと思っている事柄は、すべてこの手で定立され、その途端にそれはそこに厳として実在する、ということになる。
つまり、「俺がガンダムだ!」ということだ。僕を僕だと定義すれば、それはまぎれもない麦百パーセントののどごしになり、実現可能な夢未来その他意識高い系男子になる。そうやって前提を立てないと、砂で出来たお城はあっさりと崩れてしまう。
この本には、ショーペンハウエルの『パレルガとパラリポメナ』の一部である、「体系的に配列された雑考」の第一章から第五章までの全訳だ。知性についてはその一章にすぎない。彼はじつに多様なことを考えており、そのひとつひとつが面白い。たまに現代のライフハック記事のような箇所もあるが、それはそれで味が出ている。
- 作者: ショーペンハウエル,Arthur Schopenhauer,細谷貞雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1961/03
- メディア: 文庫
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