マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

ここは洗濯男、観測地点C

タイトルは適当です。

 どこかで心のよりどころを探している。よりどころというのは拠り所と書くようだけど、僕は糸を縒るほうをイメージしてしまう。脳内に隠された数本の思考をよってよって一本の糸にするような、そんな場所が欲しい。「ブログだよ、ブログしかないよ」とアドバイスをくれる友人Aは、おとといの夜を最後に通信が途絶えている。無理もない、この吹雪の中ではかれが住処としている洞窟も光回線は届かないだろうから。

 完成された夕方があるように、完成された朝も存在する。しかし、ほとんどの人はそれを見ることは出来ない。なぜならそれは空気のようで、常にそこにあるからだ。

 僕は昨日、洗濯物を干す住人Bを行きがけに観測することでやっとその面影を目にすることが出来た。二階建ての小さなアパートのベランダに一人の男がTシャツを干していた。濡れた衣類を広げ、ひとつひとつハンガーにかけていた。「家の中でかけてからベランダに持っていったほうが寒くなくて済むのに」といらない心配をした。そして、そのことを考えて初めて僕は彼を時折確認していることに気がついた。生活が違うのに、なぜかある一点で接触するような人間がいる。一度や二度ではない。何回もだ。そのような閉回路には完成された朝が存在する。

 洗濯物を干している男を観測することは義務ではないが、気がついたらそのようになっていた。

義務を義務と決定づけるもの

 義務とは傾向性がなく、道徳的価値がある行為のこと。道徳的価値は「その行為がみんなに適用されてもよいか」という行為を規定する格律にある。例えばゴミはゴミ箱にすてることを義務だと考えるなら、みながゴミをゴミ箱へ捨てている行動をイメージしてほしい。ゴミ箱はぱんぱんにふくれあがるはずだ。よって「ゴミはゴミ箱へ捨てること」は義務ではない。こんな風に行為を規定していくと、一般に僕らが考える義務は必ずしも義務ではないことに気づく。

 さらに、義務を義務として完全に決定することはできない。

或る行為が、それ自体としては義務にかなっているにせよ、しかしその行為の格律があくまでも道徳的根拠と義務の表象とにももとづいてたと言えるような事例を、ただの一つも経験によって完全に立証することは不可能である。

道徳的価値ということになると、行為そのものよりも、むしろ行為を規定する内的原理が問題になる、だが行為は我々に見えるが、しかしその行為の内的原理のほうは見るわけにはいかないからである。

 義務の設定は、行為の内的原理に重きを置かれる。しかし、行為する人間の内側なんて誰も見ることは出来ない。自分でも分からない。みんなが必ず理解できる、そんなスペシャルな思想はないものか。ファンタスティックな道徳はないものか。カントはここから普遍性について説いていく。

 つづく。