意味のない洒落た文脈こそ、村上春樹小説の魅力だ。蛇足の引き出しに手を伸ばすように、僕は文庫本を開く。そこには無意味なフレーズがところせましと並べられている。それらはかわいくもあるし、憎たらしくもある。森永のブラックチョコレートとコーヒーをお供に本を読んだ。
風の歌、ピンボールを経て主人公は結婚をし、そして離婚した。住んでいた街は確実に変容していて、彼もそのことを受けいれていた。そういう時代だ。ある日彼の元に不思議な男がやってくる。男の願いは主人公が広告に採用した一枚の風景写真、そこに写る動物の詳細を教えてほしいということだった。
具体的な話をしよう、羊の話だ。羊をめぐる冒険はそのようにして始まり、上巻はそこで終わった。僕は羊になんら意味を持たせることはできないし、他の読者もそうであろう。しかし、男が述べる羊話、羊論、羊物語は否応無しに何らかの現実を引き寄せてくる。寄せては返す50mの海岸のように。
小説はどこを開いても、明確な意味を持たせてはくれない。簡単を難解に、複雑を単純にみせるねじれの構造によって、私たち読者を高速道路へ置き去りにする。
認識の否定はまた、言語の否定にもかかわってくるんだ。個の認識と進化的連続性という西欧ヒューマニズムの二本の柱がその意味を失う時、言語もまたその意味を失う。
ねじれの話を非現実的な凡庸さをもつ主人公は、実にシュールに表現した。
「私の仮説を言おう。あくまで仮説だ。気に入らなければ忘れてくれればいい。私はその羊こそが先生の意志の原型を成していると思うんだ」
「動物クッキーみたいな話ですね」と僕は言った。
動物クッキーみたいな話ですね、と。どうだろう。反吐が出るほどどうでもいい、または受け入れづらい話をこれほど明確に表した格好を、僕は知らない。動物クッキー、動物クッキー、動物クッキーと三たび繰り返し、ゲラゲラと笑い、コーヒーを飲んだ。チョコレートはとうに尽きていた。椅子の上で大きく伸びをすると、また羊をめぐる冒険の続きに向った。
非現実性は村上春樹の作品のテイストのひとつだ。たいていのコーヒーが苦いように、カレーが辛いように、チョコレートが甘いように、彼の作品は非現実性を帯びている。だから、ふと世の中から離れたくなったり、喧噪から逃げたくなったら彼の小説を読むといい。どれを読んでも面白いはずだ。
短いがこれで話をおわりにする。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1985/10
- メディア: 文庫
- クリック: 14回
- この商品を含むブログ (106件) を見る