マトリョーシカ的日常

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【書評】脳髄くって生きろ/「ドグラ・マグラ(下)」【感想】

 脳髄を食って読んでいるような心地を味わった。何も手にしていない内蔵に、どくどくとくすんだ液体を流し込んでいるようなそんな気分だった。街角のバス停にひとりたちゆき、あてのない旅を続ける赤血球が、流し目を決めているような感覚だった。ランゲルハンス島にたどりついた十五人の少年が、海賊どもをこてんぱんにやっつけ、夢見る少女じゃいられない現実を噛み締めた、あの夏の日のように。

 ドグラ・マグラは中身があるようでない小説だ。一方で小説ではなく自己啓発本とすると、全く中身があるようでない小説だ。つまりはないのだ。しかし、それで言葉を終わりにしては、僕がこの本を読んだ意味がない。作者の気持ちを考えることから逃げていては立派な文系大人にはなれないからだ。しゃしゃりでたシャーペンの芯のように、フビライハンに勝るとも劣らない守備範囲の広さを身につけていきたい。

 この話は、第一に一人の青年が記憶を取り戻したいと願うものであり、第二にある二人のエゴを押し通しあうものであり、最後に読者がそこから何かを得ようと努力するゲームの側面を持っている。話全体は文体とは裏腹に、誠にきちきちりと論理立てがなされており、文章の表面だけをすくいとって、「意味が分からない」とほざく程度の低い読者——私のことだが——には大変MOTTAINAI作品である。

 しかしながら、表面にただよっている湯葉をすくいとって脳髄にしまいこむだけでも、その価値は十二分にあるし、湯葉は栄養豊富で夏バテにも効く。どちらかというと湯葉のそれは決めつけだが、その価値のそれは十二分にあれである。湯葉だ。

 話をしよう。あれは今から、一万年と二千年前だったか。まぁいい。見知らぬ天井で目をさました一人の青年は、自分の名前からなにから全ての記憶を失っていることに気づく。あひゃぁあひゃぁと狂い上がっていると、喘息持ちの白鵬、キーパードクター若林くんが参上する。「君の記憶が戻ることが、我ら九州大学医学部なんちゃら病院の栄光を意味し、かの凶悪犯罪事件を解決する重要なてがかりになる」とかなんとかどえらいことをのたまう。驚く青年。

 若林君は青年の記憶を取り戻すため、あれやこれやと手を打つが、そうそうは戻らない。そこで、ドクターは彼の前任の医者、正木が遺した論文と、かの凶悪事件の聞き取り調査の記録を青年に読ませることにした。もっとも、それは世間一般に知られる文章の体裁をなしていなかったのだが……。

 脳髄を食って生きろ的な意味合いをもった文章は、何とも言い得ない中毒性を有していて、青年はそれを一気に腹にかきこんだ。ぶはぁと一息つくと、そこには死んだはずのドクター正木がいた。

「君はだまされていたのだよ、私が死ぬはずないじゃないか」

 もはや意味がわからなくなる。

  
 僕が言いたいのはただの一言。「自尊心ってすげーなぁ」ということ。物語の始めはほとんど空気だった青年なのだが、時間が経つに連れて自我が戻って来たのかよく喋るようになる。この興奮は、宇宙人として産み落とされた我が子が、次第にこちらとコミュニケーションをとれるようになり、「こいつぁすげーや!」と喜ぶあの感覚に近いかもしれない。

「……ボ……僕は精神障害者かもしれません。……痴呆かもしれません。けれども自尊心だけは持っています。良心だけは持っているつもりです。……たとい、それが、どんなに美しい人でありましょうとも、僕自身にまだ、誰の恋人だか認めることができないような女と、たかが治療のために一緒になるようなことは断じてできません。
(以下略)

 みんな大好き『七つの習慣』には「主体性を持つ」ことが第一の習慣として挙げられている。自尊心と主体性とは傾きが多少は異なるかもしれないが、気持ちとしてはだいたい似ている。自分を持っている、しっかりしている、はなかなかの褒め言葉である。ということは、これを体現している者は割と少ないのかもしれない。

 超有名な文芸作品に触れて、その感想が「自分をもつことが大事だと思いました」という八月末の小学生に匹敵するボキャブラリーに要約されていしまい、それってどうなのあほなのと言われてしまいそうだ。それでも「ここまで気持ちでつないだから許して」と、こうして熱々鉄板の上に四肢をおろした姿勢でキーボードを叩いているのである。言わずもがな、後ろには兵藤が見守っている。

 おわり。

ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)

ドグラ・マグラ (下) (角川文庫)

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