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マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

【再読】ぼくらは車輪のどこにいるか/「車輪の下」

読書

読書会に参加できないのでフライングしてみる。

 今日は十九時からid:grshbさんが主催するウェブ読書会があるのだけれど用事ができてしまい参加できなくなってしまった。そういう訳なので一足先に課題図書の車輪の下についていろいろ書いていこうと思う。

【告知】2014年1月11日(土曜日)にウェブ読書会やります - 読書会・映画会の成果報告ブログ(仮)


 といっても車輪の下は一度記事にしたことがあるのでそれほど書きたいことは残っていない。

 あらすじを説明すると、地方で神童と呼ばれていたハンスが都会の進学校で落ちこぼれて退学し、終いには川で溺れて死ぬというものだ。話の途中までは著者であるヘッセ自身が体験したことであり、自伝的な小説になっている。タイトルの車輪の下を言及している箇所は校長先生が落ちこぼれ気味で調子の悪い主人公を気遣う場面のみだ。

「それじゃ結構だ。疲れきってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね」

 これだけだとちょっとわかりにくい。

 車輪の下についてid:bulldraさんはこんなことを書いている。

そもそもドイツ語の「unter die räder geraten(=車輪の下敷きになる)」と言う言い回しには「落ちぶれる」という意味があるそうだ。
車輪の下「で」 - 情報学の情緒的な私試論β

 なるほど、車輪の下は慣用句からとったものなのか。日本語で言うと「うだつの下で」とかなるのだろうか、いやならないな。

「車輪の上」を考えよう

 以前の書評記事で僕は車輪の下について次のような考えを示している。

 ここからは僕の考えだが、車輪とは何か大きなもの、社会全体のシステムを表していると思う。世の中の一部に組み込まれることを、歯車になる等と表現するが、これは社会という車輪を動かすための部品になることだ。それでは車輪の下とはなにか。そこでは社会とともに動くこともできず、押しつぶされて息絶えてしまう。社会のレールから外れてしまった人間の着地点を車輪の下と表しているのではないか。
【書評】社会に押しつぶされた神童、あらがった詩人/「車輪の下」 - マトリョーシカ的日常

 今もこの考えは変わらない。今回はここから話を膨らませて車輪の上、車輪の横、車輪の奥または手前はどういうことかを書いていく。

 まず、車輪の上にいる人は何もしなくても移動することが出来る。つまり不労所得を得ている金持ち貴族だ。次に横は車輪の進行方向にいるかいないかによって分かれる。これから車輪が向かってくる側にいる人は下敷きにならないように必死に走る人だ。サラリーマンや公務員など。ここが一番人口分布が多い気がする。車輪の通った後にいる人たちはなぜか逆に車輪を追いたがる。社会に置いてかれないように。スマホを使いたがるおじいちゃんがここに入る。次に車輪の手前は車輪の全体像やそれに合わせてうごく人々をきれいに写し取ることが出来る。つまり新聞やラジオなどのメディアだ。最後に車輪の奥は社会に干渉せずひっそりと暮らすアマゾンの原住民や霞を食べて生きる仙人がいる。

 図にしてみるとこんな感じ。

http://instagram.com/p/jBbIT6hBDM/

なんとか車輪の上に飛び乗りたい

 こうしてみると僕はきっと車輪の横に位置するのだろう。お金がなくならないように必死に走り続けるのだ。車輪の奥へ移動してひっそり暮らすのも良いけど、どうせならぴょんと車輪の上に飛び乗って楽して暮らしていきたい。そしてお金に溢れた裕福な生活を過ごしたい。やっぱり世の中金だ。飛び乗る方法はいろいろあるはずだからそこらへんは模索していきたい。

 こちらからは以上です。

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