全く進展のない、人生の空洞にとじ込まれたかのような日々を過ごしている。やることはやってしまった気もするし、そうでない気もするが、ただ命をうすくうすく延ばしながら生きている感じでどうにもならない。
また青色本を読んでいる。語の意味とはなにか。そういう問いに対して、意味とは使用、複数の使用例から意味をかたどる、と彼は表現したいようだった。直接的な意味が天から明示されるわけではない。こんな使い方、あんな使い方があって、ぐにゃぐにゃしていた語の意味が固まっていくのだ。そうか。
生きた命題にするために死んだ記号を加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。
p15
非物質的なものが心のおこりであった。彼はここから心はどこか、思考はどこでなされるかを論じていく。しかし短い文章ながら一向にその解をさぐることはできない。非常に不思議な文章だった。解説を読むしかない。
『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインにとって言語は唯一絶対のものであったが、中期以降には、彼はもはや言語の唯一性を信じてはいない。
p184 :解説
まさにそうだった。語りえぬものについては、、、としていたウィトゲンシュタインが青色本では心について論じている。言語が絶対のルールではなく、言語を特徴づける意味、意味を決定する使用。使用のまわりや広がるを感じるにつれ、「これは世界に心をつけないとやばい」と考えたのではないか。
哲学者は、哲学的意見ないしは確信として、感覚与件は存在すると言う。だが、感覚与件が存在することを信じると言うことは、結局のところ、或る事物が存在しない場合にも我々の眼には在るように見えることがあることを信じる、と言うことである。
p160
ウィトゲンシュタインは「あるからあるんだよ!論」に否定的である。当事者における「ある」は彼の私的な空間を基準にしている。しかし言語は他者との約束によって意味が形成される。完全に独立したひとりではなしえない世界なのだ。きっとね。
しかし、自我(エゴ)が心的であるということは、数字の「3」が何か物理的事物の記号でないことに気付いて、だから数3は心的、または非物質的性質のものであると言うようなものである。
p168
自我は心的ではない。あるんだ!は心ではないのだ。ここを掘り下げていくのは「哲学探求」になるだろうか。青色本はこのあたりで途切れている。
全く救いのない文章になってしまった。結局心とはなんなのか、自我は心ではない?心より重要なものがある? わからないことばかり。それでも人生は歩いていけるのだから、このロバスト性には呆れるものがある。