マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

月日は百代の過客だ。知らんけど。

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Coffee on table with spoon photo by asoggetti (@asoggetti) on Unsplash

 日々が流れていく。流れるというのは連続的であり規則的なイメージをもつそれであって、私が観測可能でなくてはならない。果たしてそれは流れているのか。乗るべき電車がホームに滑り込んできて、思考はそこで遮断された。ここしばらく文章を書いていなかった自分は、どこか宙に浮いているようで空気のよどみの一部のようである。それが何を意味するかはしらない。

 意味は使用である、という文章を以前書いた。ウィトゲンシュタインの青色本の内容である。まったく。この世界に意味らしい意味なんてないのかもしれない。私たちは真実とか正しさを求めがちだが、それは言葉の中で発見するのは無理である。ニュートン力学では、「全ての結果には必ず原因がありそれは数値的表記が可能である」という方針が設定されている。けれども量子的にはそいつは考えづらく、もはや「あるからあるんだよ!」と投げやりに答えるしかない。

 我々は自分が使っている概念を明確に定義することができない。本当の定義を知らないからではなく、それらの概念には本当の「定義」がないからである。
「青色本」p61

 定義をしたがる生物なんて人間くらいだ。きっとそうにちがいない。虫や獣もなにひとつ思わず、平気な顔をして生きているではないか。本当にそうか? 実は彼らも人間と同様な社会レベルを持っていて、みなの意味を統一させようとかいう意志を持っているのではないか? 

 やっと「青色本」の中身が分かりだした。やはり私は文章に表現しなくては理解できない人間なのだろう。以前の日記で、「読む/書く/つくる」というキーワードを書いてやったことがあるが、それはまさしく私の人生のテーマなのかもしれない。
matoyomi.hatenablog.com

 知らんけど。