マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

「もう限界……」と嘆くウィトゲンシュタインを全力で応援する松岡修造

 さて、どこまで書いたか。命題を余すところなく書き尽くす術を今回にもってきたか。そのような気がする。そもそも、命題とは要素命題と呼ばれるさらにちっさい命題の複合体である。要素命題はその名の通り、要素の命題であり簡単に言えばON/OFFのスイッチのことだ。レバーの前にこれはなにがしという文字が入っており、YES/有ならONで、NO/無ならOFFとなる。true or false 、真偽。命題はそれらのスイッチのまとまりを指し、要素命題AがONでBがOFFならこうとか、そうとか彼らは頑張る。

 命題の記述は単純なON/OFFスイッチによってなされる。それではそのスイッチはどこからきたのか。本書では「要素命題は名からなる。それは名の連関、名の連鎖」と述べておりさらに、彼は名は対象を指し示しているものと書いている。答えが近くなって来たと思い、対象はどこからくるのかと読み込む。しかし、どこにも記述はなかった。対象は単純で分解不可能であるが、それの出所は知らない。なんてことだ。

 少し攻め方を変えよう。私は索引でア・プリオリを調べた。ア・プリオリとは当たり前とかそういう意味だ。生まれつきあったんだよ、理由もなく存在していたんだよ。ウィトゲンシュタインが対象もしくはそれに近しいことについてそう述べていれば全てが解決する。

 五・五五七一 
 ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることが私にできないのであれば、要素命題を列挙しようという試みは、最後には(要素命題の総体という限界に突き当たり)あからさまなナンセンスに行き着くしかない。

 これはどういうことなのか。ナンセンスになるのはダメだから要素命題はア・プリオリに存在する、と言いたいのか。それともナンセンスになっちゃってごめんね、仕方ないね、ということか。ここらへんからウィトゲンシュタインは読者を煙に巻こうとしていく。

 「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」そしてその世界を観測する私、つまり主体は表すことが出来ない。目によって目をみることはできない。体重計は自身の重さを測れない。計測機器は自分自身を計測できない。世界の限界を知るためには、それをつくりだしている私そのものを理解するしかないが、その私は論じることが出来ない。匙は投げられた。

 そうして「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。」といきたいところだが、もう少し書きたいことがある。多分次回で論理哲学論考は終わり。

 タイトルはとくに意味はない。

(日めくり)まいにち、修造!

(日めくり)まいにち、修造!