日々の文章を書き溜めた野帳が二十冊を越えた。昔は日記を書いていたが、いつからか面倒になりこうして文章を埋めていくノートを持つようになった。もっとも、はじめのころはアイデアをスケッチするためのノートでしかなかったのだが、後から見返すと何を考えていたのか思い出せないことが多かった。そのため文章のみで表現することにした。文章は圧縮率と復元性の高い記録方法である。どんな汚い字であれ、それが読み取ることが出来ればまた書き起こすことが出来るからだ。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」これは岩波文庫の巻末の言葉だが、私の文章はなにを欲すのか。私自身はなにも望まないことを望んでいるがそれもひとりよがりな結論だ。
黒体放射を説明するためにプランクは以下の仮説を立てた。i) 原子の系はとびとびの値をとるエネルギーの系列に対応する定常状態において安定である。ひとつの定常状態から別の定常状態へ移る(遷移する)ときはエネルギーの変化が起こる。 ii) 遷移する際に変化するエネルギー量は、振動数に比例した式を満たさなければならない。(hν=E1-E2)これを量子仮説と言う。
ミクロの世界に目を向けると、そこは連続ではなく不連続が支配していた。電子の軌道を安定に保っている力はよく分からなかったので「要素的作用量子」と名付けることにした。神の見えざるちっさいおっさんである。作用という言葉には原因と結果という関係は存在しない。こうだからこう、そうだからそう。以前、目 (id:ankoro) さんが量子力学と回文づくりに関して記事を書いていた。回文も要素的作用量子が働いている。なぜトマトをひっくり返してもトマトなのかと聞かれると、そういうふうになるからとしか言いようがない。
もはや原因と結果というパティーンは通用しない。我々は光をあてることで観測を行うことが出来るが、その光によって量子は動きを変えてしまうからだ。だから本来の状態を知ることは決して出来ない。観念や概念などの抽象的な思考を持つほか道はない。
直観性と因果性の双方を断念するという、原子的現象の記述においてこのように強いられることになった事態は、原子という表象の出発点を形成していた希望が潰え去ったものと見なされるかもしれません。にもかかわらず原子論を私たちの認識における本質的な前進であると歓迎し(考え)なければならないのです。
哲学からはじまった原子論は、物理学へと受け継がれ、いつの間にかもとの哲学へ近づいていく。そんな予感がする。
- 作者: ちっちゃいおっさん
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