マトリョーシカ的日常

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【書評/感想】日本料理は衰退しました!/「大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? 」

力強くめしを食え!

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大衆めし 激動の戦後史: 「いいモノ」食ってりゃ幸せか? (ちくま新書)

 時間がない。圧倒的に書評を書く時間がないのだ。さいきんは修論の原稿の体裁を整える事に加えてやれ発表練習やらやれ風邪やらやれ奨学金やらやれ銀行で新札両替やらなんやらで忙しい。まだ師走にもなっていないのにこれだ。そして僕はまだ暇をもてあましたモラトリアム大学生である。社会人になってしまったら書評を書く事が出来るのだろうか。まぁいい。大丈夫だ、問題ない。


 時間がない時は新書の書評に限る。教養書は頭を使うし小説は時間を食う。平積みになっていてタイトルが分かりやすそうな本を選んだらこれだった。激動の戦後史と書いてはあるがそれは筆者が意識的に激動という単語を本文中に使っているからで本来はそんなに激動ではない。ただ戦後から現代まで日本人はどんなものを食べていきてきたかというのを体系的に理解していなかったので本の内容は興味深かった。

「気取るな、力強くめしを食え!」野菜炒めのように強火で一気に読める新書だ。

冷凍レトルト乾燥。三つの技術が日本の食卓を変えた

 つまりはそういうことだ。日本の食を近代化に押し進めたのは食品工業の技術革新によるところが多い。今では当たり前に思えるが江戸時代の人が冷凍食品やレトルトカレーや即席麺をみたら驚くだろう。以前テレビでチキンラーメンの開発秘話が特集されていたがあれはたった一人の男によって発明されていたと知ってうへえと思った。(驚く以外の語彙を持ち合わせてないのだ)まあすごい、すごいのだよ。

 五十年代、六十年代、七十年代の食文化の推移が書かれているのは読んでいて楽しい。学校給食に米飯が導入されたのは七十年代だったそうな。それまでは小学児童は何を食っていきていたのだろう。あげぱんとかかな。外食文化も進みファーストフード店もオープンしてきた。

 そして日本料理は敗北する。

包丁が第一!の日本料理

 本書で定義される日本料理とはなんだろう。まず日本料理はおかずではない。野菜炒めでもさんまの焼いたのも違うらしい。これは筆者も衝撃を受けた。

 おれは、そのとき初めて、アレッ、日本料理ってなに? と思ったのだ。めしのおかずは日本料理じゃなくて、めしのおかずにもなりそうにないシュリンプカクテルが日本料理だっての、缶詰のサケをゼリーで固めたようなオードブルみたいなのが、日本料理になるの。
(中略)
 おれは、大変な衝撃を受け、胸は激烈に鼓動し、混乱しつつ、これは承服しがたいことだと思った。

 結局のところ日本料理はこういうものだと定義するのは難しいらしい。本書には書かれていなかった。(僕が見落としているかもしれないが)しかし日本料理が敗北していった理由は少し書かれていた。それは日本料理の哲学の中心がが米ではなく包丁の冴えをつまり食材ではなく道具を置いている点である。たしかに包丁の冴えを発揮すると食材の味が見事に良くなるのだろう。しかし技術や流通の革新によって食材の味は落ちなくなった。年中何処でも同じ味が楽しめるようになったのだ。


 あぁじゃあもう日本だめじゃん。おわったじゃん。


 違う!諦めちゃダメだよ!

 日本には日本料理とは少し違う生活料理がある。ごはんにあうおかずがそれだ。筆者の筆はここから加速する。

深夜に読むな!野菜炒め考察

 ここで著者は友人が書いた本を紹介する。友人は日本の生活料理の代表として野菜炒めを挙げている。料理本から引用してきたレシピを並べ著者がひと言二言加えている。いやそれどころではない。著者は相当の野菜炒めマニアなのか食材から鍋からいため方から熱弁しているのだ。これほどまでに野菜炒めを愛している男を僕は知らない。合間に彼の昔話が加わってちょっぴりセンチメンタルな気分になる。

 しかしなぜ野菜炒めなのか。

 そこに日本文化あるいは日本料理のアイデンティティに関わる問題があると見たからのようだ。

 野菜炒めにルールはない。どんな野菜でもいいし、どんな味付けでも良い。それは日本人のアイマイに繋がるというのだ。面白い考察だ。食の柔軟性という言葉も使っていた気がする。とにかく日本人は何でも食べる。和食でも洋食でも中華でも。そこから新しい何かが生まれるのを著者は期待しているのだろうか。

おわりに

 時間がないとき限ってなぜか書評が長くなる。一気に書いた割にはうまくできたと思う。

 孤独のグルメのこともちょっと書いてあったけどそのあたりは読んでみてください。

 十月発行の新しい新書。たまにはこんな本もいいね。