マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

とりとめのなさと一九八四年

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Mountain, loneliness, solitude, wilderness and natural elevation HD photo by David Marcu (@davidmarcu) on Unsplash

 自分の中にある言葉の少なさにあきれている。何かを参照しない限り何も語ることができない。そのような人間になっている。しかし、そうはいってもやはり文章を書く行為全般は何らかの刺激によってなされるはずであって、参照のない出力などこの世には存在しないのだろう。

 アンダーグラフの昔の曲を聞いたら学生時代を思い出し、久しぶりにサークルのホームページを見ようとした。閉鎖していた。こうして私の過去がひとつ閉じられた。あそこに収納していた出来事は果たして実在していたのか。実際、あれに所属したのは1年ほどだったので、記憶がより薄い。それでも今回のようなケースで過去が蘇ってくる瞬間は存在するので油断できない。

 音楽に過去と現在を繋ぎ止める力があるのだとすれば、ここ数年の出来事はもうしばらくしたら消え去ってしまうのだろう。それほどまでに曲を聞いていない。アナログでもデジタルでも楽曲を購入し、そいつをリッスンする習慣がなくなったのだ。

 電車通勤になってからメモと読書の時間が増えた。メモは野帳に万年筆で自分の思索を書き残している程度で、読書はページをめくる程度だ。最近は「一九八四年」を読み直している。「全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖」(wikipedia) を描いた作品で平たく言うと国中で道徳の授業をやっているような感じだ。二重思考とニュースピークによって人間の多様性が失われるなかで、主人公のウィンストンはこの世界をぶっつぶしたいと考える。そんな中で美女のジュリアと出会ったり、反社会組織に入会したりと運気は上向いていく。しかし。

 作中でオブライエンというおっさんが「過去は改変可能だ」と言っていた。観測者の精神によって過去は変わるのだと。主人公ははじめは抗うが度重なる嫌がらせに、精神がおかしくなってしまい、「そうかもなぁ」と感じるようになってしまった。過去は変わるのか。どうなのか。過去という言葉はあやふやでおおまかでざっくりしすぎているから、よくわからない。そもそも変わるということが曖昧だなぁと思った。

 時間は長い短いと表現できるが、広い狭いとはいうことができない。どうしたらそんな風にいい表すことができるか。少しだけ考えた。二人の観測者が独立の時間軸を有していて、そこに別の観測者が意味合いをもたせる。そんな具合か。なんにせよ、神様でもない限りその次元の発想は困難である。

 どこかで思考を書き留めておかなければ、私が霧散してしまいそうで、だからこうして書いている。この文章に色はあるのか。ないか。

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)