マトリョーシカ的日常

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内的直観に左右される業務/不完全性定理

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Let there be light., by Anders Jildén | Unsplash

 書くことしかできない。この作業は自身に内包している思いの丈をぶつけるとか、主張するとか、そんな話ではない。日々どこかに蓄えられていくひずみを少しでも軽減するための行為である。私はひとつの文章を書ききると少しだけ落ち着くことができる。自分の存在を外部に落とすことができたのだから。ただ、その安心感は長くは続かず、また何かを書くことになる。その繰り返しである。

 ヒルベルトが不在の間、数学基礎論ではラッセルだけではなく他の研究者も登場し、各々が主張を行っていた。その中にヒルベルトの無限数学を真っ向から否定する勢力があった。その中心人物がブラウワーだった。彼は自身を直観主義者と称し、他方でヒルベルトらは形式主義者とした。直観というのがどういうものを指すのかよくわからないが、文中から考えるにカントが用いる直観と似ている。人間がアプリオリに携えている感覚のことである。カントは時間と空間としていた。ブラウワーが無限を否定したのは、それを人間が数えられないからである。「いつかきっと答えはあるよ!」という可解性の希望なんて存在しないのだ。我々人間は存在があって、寿命があって、時間と空間において制限されている。だから我々の考える数学はそれらに束縛されており、無限を感知することは不可能なのだ。そういう話だ。

有限な人間知性が、内的直観の各地点で答える一般的な術を持つことはできない。
p200

 1917年にヒルベルトは数学基礎論の世界へ戻ってきた。それから公理系と呼ばれる手段を考えたり、弟子のワイルがブラウワー側へ転向したり、いろいろなことがあった。その後、彼は形式系という強いやつを考案した。数学には意味があるものとないものが組み合わさっており、それぞれ内容的数学と形式系に区別できる。そうして、形式系を内容的数学で研究することを「超数学」とした。これなら以前のポアンカレの批判を回避することができる。

「形式系」の帰納法の無矛盾性を「超数学」の帰納法で証明するのだから循環論法ではないのである。
「不完全性定理」 p224

 すごい考えだった。1928年にはヒルベルトとブラウワーはものすごく仲が悪くなって、最終的にブラウワーが仲間はずれになる。ヒルベルトは政治的に勝利を収めた。よかったですね。このあと彼は1928年のボローニャ国際数学者会議でヒルベルト計画の方針を示した。四つの問題を提示した。これをすべて解ければ可解性はオールオッケー。なんでもできるよ!となる。一番目の問題は達成されており、二番目ももうすぐ解けそうだった。そして四番目はゲーテルが解いた。ここでゲーテルが出てくる。

 空が明るくなってきた。そろそろ子供が起きそうだ。今日はここまで。

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