マトリョーシカ的日常

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【書評/感想】お化けの出ないホラー小説/「夏と花火と私の死体」

しばらくは乙一まつり

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夏と花火と私の死体 (集英社文庫)

 積み本がなくなったので補充するためブックオフへ行ってきた。105円文庫からめぼしいものを探す。教養を深めようキャンペーンが自分の中で終了したので次は作家論をさらしてみようフェアへ移行することにいした。ちょうど乙一さんの作品が7、8冊並んでいたのでごっそりと買うことにした。このごっそりと文庫を引き出す感覚はなんともいえない気持ちよさがある。

 夏休み。九才の少女五月は同い年の女の子弥生によって殺されてしまう。弥生と彼女の兄の健は死体となった五月を処分するため村の中で冒険を繰り広げる。夏のぬるい暑さに響く風鈴のように読み終えると背筋がすっと寒くなる。そんな小説。

ほんとの子供と大人びた子供

 冒頭で主人公である五月は殺されてしまい、それ移行「わたし」となって小説中のフィールドを駆け回る。一人称視線で相手の心情や行動を書くときは制約が生まれるのだが、早々と死体となって「わたし」として語ることでこの制約を克服している。死体は場所移動も心情を見抜くことも何でもできるのだ。これは乙一さんすごいなと感心してしまった。

 殺人の罪をおかした犯罪者と聞くと極悪非道、冷酷、残忍なイメージを持ってしまい彼らを非難する立場に身を置いてしまいがちだ。しかしこの小説では加害者である弥生にはなぜか負の感情を向けられない。殺すまでの時間がかかっていなかったし、殺した時の描写もあっさりだったからだ。ロリコンであってもなくても「まぁ仕方がないよね」と味方してしまいそうになる。弥生はまだ幼い子供なのだ。一方で五月を隠す計画を企てた兄の健は大人びている。感情を表にださず機転も働く。しっかりはきはき喋るしきっとイケメンなのだろう。小説を読んでいる分では健には悪意はないように思える。一人の死体を隠すという非日常的な状況を楽しんでいる。

 正反対な性質を置くことによって物語が引き締まって見える。

お化けが出てこないホラー小説

 裏表紙のあらすじを読んで僕はちょっと後悔した。なんだよこれ、「ホラー界」ってホラー小説じゃないか。僕はお化けが嫌いだ。そしてホラー映画や小説も嫌いだ。昔アンビリバボーの心霊特集うっかり観てしまいその日はトイレにいけなくなってしまった。そのくらい苦手なのだ。

 おそるおそる読み進めていくとお化けは出てこない小説だと分かって安心した。しかしなぜこれがホラー小説に分類されるのかは次第につかめてきた。二人の兄妹に感情移入してしまい、いつ自分たちの罪が発覚されるのか緊張してくるのだ。幾度となく二人の身に起こるピンチに僕の寿命は三ヶ月ほど縮んだ。心臓にあまりよろしくない小説だなあ。

 この感覚を数値に置き換えてみよう。かくれんぼで隠れているときに鬼と自分の距離が数十センチしか離れていないときくらいのあのドキドキ、それを1ドキドキとすると3.5ドキドキくらいか。
 帰りの電車のなかで3.5ドキドキを消費した。怖かったー。

おわりに

 久しぶりに小説の書評を書いたけれどやっぱり勝手が掴めない。書評で一番難しいのは詩、小説だなあ。

 しばらくは乙一さんの作品をレビューしていきたい。全部やったら作家論を書いてみよう。

※作家論で書評を書くというのは(チェコ好き) (id:aniram-czech) さんの以下の記事に影響を受けたからです。
おいしい書評の書き方 - (チェコ好き)の日記