マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

非物質的なアーク溶接棒

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Photo by Laszlo Kiss on Unsplash

 そして人がこのことから引き出す結論は、生きた命題にするために死んだ記号に加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。
 しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用(use)であると言うべきであろう。
ウィトゲンシュタイン 「青色本」 p016

 私をとりまく生活の中で様々な変化があったはずである。いくつかの手続きと諸々のやりとり、種々の長さの線の貼り付けや除去などがあった。どうしても抽象的になってしまい、なんとなしに他人事になる。以前の職場ではこのような癖が悪い方向へ出てしまい、身動きがとれなくなっていた。いまはどうか分からないが、涼しげな風が吹いている。

 ひたすら溶接をしていた。2.3mmの鋼板を折り曲げて箱をつくり、つなぎ目を溶接で止めた。溶接棒と対象物の距離を絶妙に保ちながら、火花の量を調節した。溶解した金属は隅でかたまって、その跡がミミズのようになった。これが正解なのか、不正解なのか。どちらでもないのだろう。

 意味とはなにか。意味とは使用である。はじめに意味ありきではなく、使用されるにつれてその本質が浮かび上がっていく、いやそんなものではない。本質などないのだ。使用。

書き出しのみで構成される文脈

意味に立ち向かわなくてはならないが、私はそれに気をやることができない。どうあがいても夏は終わってしまい、短い季節がそこにある。ここは何処か。

四分という短い乗り換え時間をやり過ごし、私は電車に乗った。ドアが閉じて車両が動き出すその瞬間に、後ろ髪を引かれた。景色はどこまでも未知であったし、等しく何も与えなかった。

持ち物が増えるほど、どんどん弱くなっているような気がして、それは老化ではなくて、縮小でもなくて、それでも悪い気はしない。生きるとは強くなることではなく、弱さの中で自身をやりくりすることではないか。

非周期的に変動している値を何かの指針に合わせたいときがある。そんなときは、90%レンジという概念をもとにして解を構築すればいい。らしい。省令に書いてあった。ただ、変動や周期とかいうものは主観でしかないしなあ、と考えてしまう。そうすると全ての事象は主観となってしまい、整合性はなくなるのであった。

誰かの死を書き出しに用いている小説、わたしはひとつしか知らない。「異邦人」。あの主人公は誰かを殺めてしまって、なんとかなって終わった。私は文章に対してひどく関心が薄い。

電気自動車への移り変わりは、単なる駆動源の変化ではなく、移動手段のデザインの変化となるはずだ。エンジンがなくなることで、車はもっと自由になる。誰でもつくれるようになる。下手すると、もはや車ではなくなるかもしれない。どうなるか分からないが、そこには楽しさしかない。

徳を積むように電子マネーを貯める未来が見えた。空き缶をゴミ箱に捨てるとポイントが貯まるような。誰かがある行為に対してポイントを設定し、それを別の誰かが実行するような未来。しかし、それは道徳とは何か、正義とは何かということに成りかねず、私たちは新しいシステムを目指さなくてはいけない。

さながらカマキリの腕

 夕陽が沈む頃に会社に向かう。もしかしたらあれは朝陽で、世界は次第に朝を迎えるのかもしれない。そう考えてみたが、やはり陽は沈んでいくのであって、私は逆向きに生きている。

 さまざまなことがあった。家を買った。とんでもなく長い年月をかけてローンを返していかねばならない。けれどもそれは賃貸でも同じことであって、私の気の持ちようによってどうとでもなるのかもしれない。そうやって家購入のもろもろの手続きに追われた。ローン審査のお願いとか保険の申し込みとか税金のなにがしやら、いろいろあった。引っ越しもなんとか終わった。そしてここにいる。

 着々と決定を行っている。私の人生の可能性がゴリゴリと削られていくのがわかる。これでいいのかどうかは知らない。知らないなかで着地点を設定せねばならない。

 まだネットが繋がらない。工事日がいつになるのかも分からない。1ヶ月程度はこのような文章の細切れを炒めることになるだろう。