マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

書き出しのみで構成される文脈

意味に立ち向かわなくてはならないが、私はそれに気をやることができない。どうあがいても夏は終わってしまい、短い季節がそこにある。ここは何処か。

四分という短い乗り換え時間をやり過ごし、私は電車に乗った。ドアが閉じて車両が動き出すその瞬間に、後ろ髪を引かれた。景色はどこまでも未知であったし、等しく何も与えなかった。

持ち物が増えるほど、どんどん弱くなっているような気がして、それは老化ではなくて、縮小でもなくて、それでも悪い気はしない。生きるとは強くなることではなく、弱さの中で自身をやりくりすることではないか。

非周期的に変動している値を何かの指針に合わせたいときがある。そんなときは、90%レンジという概念をもとにして解を構築すればいい。らしい。省令に書いてあった。ただ、変動や周期とかいうものは主観でしかないしなあ、と考えてしまう。そうすると全ての事象は主観となってしまい、整合性はなくなるのであった。

誰かの死を書き出しに用いている小説、わたしはひとつしか知らない。「異邦人」。あの主人公は誰かを殺めてしまって、なんとかなって終わった。私は文章に対してひどく関心が薄い。

電気自動車への移り変わりは、単なる駆動源の変化ではなく、移動手段のデザインの変化となるはずだ。エンジンがなくなることで、車はもっと自由になる。誰でもつくれるようになる。下手すると、もはや車ではなくなるかもしれない。どうなるか分からないが、そこには楽しさしかない。

徳を積むように電子マネーを貯める未来が見えた。空き缶をゴミ箱に捨てるとポイントが貯まるような。誰かがある行為に対してポイントを設定し、それを別の誰かが実行するような未来。しかし、それは道徳とは何か、正義とは何かということに成りかねず、私たちは新しいシステムを目指さなくてはいけない。

さながらカマキリの腕

 夕陽が沈む頃に会社に向かう。もしかしたらあれは朝陽で、世界は次第に朝を迎えるのかもしれない。そう考えてみたが、やはり陽は沈んでいくのであって、私は逆向きに生きている。

 さまざまなことがあった。家を買った。とんでもなく長い年月をかけてローンを返していかねばならない。けれどもそれは賃貸でも同じことであって、私の気の持ちようによってどうとでもなるのかもしれない。そうやって家購入のもろもろの手続きに追われた。ローン審査のお願いとか保険の申し込みとか税金のなにがしやら、いろいろあった。引っ越しもなんとか終わった。そしてここにいる。

 着々と決定を行っている。私の人生の可能性がゴリゴリと削られていくのがわかる。これでいいのかどうかは知らない。知らないなかで着地点を設定せねばならない。

 まだネットが繋がらない。工事日がいつになるのかも分からない。1ヶ月程度はこのような文章の細切れを炒めることになるだろう。

召喚士は通す。ガードも通す。キマリは通さない。

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Photo by nikita velikanin on Unsplash
 文章によって生かされている。フレーズが浮かんだだけで実際はどうかは知らない。少なくても死んでいることはなさそうだ。いくつかの台風とミサイルが頭上を通る間、私はひとかたまりの仕事をちぎっては投げちぎっては投げていた。
 日常を切り取ることは容易だが、思考を切り取ることは難しい。という言葉をいま考えた。この切り取るというのはどういうことか。意識の幅を狭くすることか。なんらかの編集を加えるということか。両方か。なんにせよ、全くのクリアな現象や要素は存在しない。観測者がいる限りそれは観測された事象でしかなく、真の値とかリアルな値ではない。そうやって考えていくと切り取る行為は生きているそれであって、我々が呼吸をしたり心臓を動かすことと同義だった。切り取らないほうが難しい。

 息子が2歳になった。もう2歳なのか、まだ2歳なのか。子供の成長は著しく、毎日なんらかの経験値を得ている。最近は歌ばかりうたっていて、こちらが「うーうーう、ううううーう」と問いかけると、「おっくせんまん、おっくせんまん♩」と返してくれる。誕生日プレゼントでプラレールのレールセットをあげたら、楽しそうに遊んでくれる。自分で列車をつなげられるようになっていて驚いた。

 まだ八月なのか。今年は長い。仕事は異動になるし、家を買うし、子供が育つしでイベントが目白押しだ。本が開けたら資格試験に向けていろいろと準備しなければならない。趣味のほうもちまちま何かしら進めたい。新居は部屋が多いから、自分の書斎が持てる。そこに3Dプリンターを購入してわくわくなものを作りたい。本も読みたいし、文章を書きたい。

 そうやって生きている。