文章によって生かされている、ということをいつだったか書いた。それがそうだとしたら、近頃の私は死に絶えていた。日々の生活に押し流されて、息をするのも忘れていたのだ。息継ぎをするように水面にやってきて、一瞬書き留めて息をpush/pullしてまた潜っていくのか。
いつか読んだ本の記憶はとうになくなった。「華氏451度」という本。本を燃やすことを職業にされたファイヤーマンが、いろいろ逃げていく。彼は自分が燃やす本に日々の救いがあるのではないか、とやっていたがそんなことはなかった。文章は文章でしかないのだ。
最近6歳の長男が文字を書き出して、名前をひらがなで表現している。このあいだは数字を羅列してカレンダーをつくっていた。なんとも人間らしい遊びである。次男は知的障害を伴う自閉症のため、そこまでいけるかどうかわからない。次男は毎日を跳んで過ごしている。
10年で変わらなかったことを考える方が難しい。修了して就職して結婚して子供ができた。家を買い、車を買い、昇進した。周りの人々は結婚したり疎遠になったり、どこかへ行った。私だけが残っている。工作をしたりプログラミングをした。そういう生き方になってきている。
ただ、文章はずっとここにある。私が見放してもずっとそこにいる。紙が擦り切れたらとか、データが消滅したら、とかそんなことは関係ない。文字とは概念であって決まりであるので、有れと願う限りいつまでも有るのだ。
過去のことは振り返らないことにした。私は過去に生きていない。面倒くさいのも有るし、へんに修飾したりしたくない。
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
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