シュレーディンガーは行列力学と波動力学(波のやつ)が数学的に同じであると証明した。そしてそこから、双方の理論の融合を試みた。他の人も頑張って変換理論をつくった。成功した。もう、行列と波動は自由に行き来できる。やったー。文章がなげやりなのは気にしないでほしい。
物理学者はシンプルを好む習性があるので、いくつかの理論があると一緒にしたくなる。さきの話から行列力学と波動力学は統一されたので、今度は光の粒子性と波動性の統一をがんばることにした。これはどちらかが正義でどちらかが悪という簡単な図式ではない。
「空に浮かんでいる風船が突然勢いよく動いた。なぜか」 こんな質問をすると、西洋人は風船に穴が空いたからと答え、東洋人は風が吹いたからと答えるらしい。考え方に違いがあるのが面白い。波と粒の矛盾を解決するためには東洋のそれが必要だった。場の理論である。
元来、場は自由度無限大の力学系であるが、そのことは場というものの状態には任意個数の同種粒子系の状態が全部含まれるということに対応している。
つまりはなんでもありだ。場は全てを予め有しており、消すことも創ることも簡単にできてしまう。電気のスイッチのように。この場では真空というのも立派な状態のひとつである。粒子は消滅しうる。
さらには、量子力学を相対論へ適合することもなされた。光くらいの超スピード状態でも量子力学を考えられるようにした。ディラックさんが頑張った。そのあたりから素粒子の話になる。これ以降の話を追うのはやめよう。量子力学の記事はここで終わりにする。
なぜ量子力学の歴史を知ろうとしたのかというと、量子コンピュータに興味を持っており、どうせなら量子力学から知ろうと思ったからだ。しかし、今となってはわりとどうでもいい。よくわからない情報を仕入れては吐き出すのが楽しくなってしまった。
量子力学の鍵は観測である。私たちはものを見るためには光を当てなければいけない。しかし、量子力学に出てくるようなやつらはとんでもなく小さいので、光をあてるだけでも状態が変わってしまう。つまりは彼らを直接観察し全てを知ることは不可能なのだ。そこには抽象、つまりは妄想が必要になってきて、物理学は哲学の色を帯びる。
はて、考えるということは光をあてることには繋がらないのか。抽象化により真実をつかむことはできるのか。知らないよ、そんなの。
私たちはどこまで考えることができるのか。思想の彼岸はどこにあるか。次回からはウィトゲンシュタインの論理哲学論考を読む。そんな話だから。
- 作者: 吉田雅美
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