八十ページ足らずの文庫本に、これほど時間を取られるとは思っていなかった。50円で売られていた薄い岩波文庫。『職業としての学問』は、マックス・ウェーバーがミュンヘンで行った有名な講演をもとに構成されている。第一世界大戦後の混沌とした世の中。自分探しに明け暮れる若者たちに向けて「いいから自分たちの仕事しろ」と説いた。
全編において彼のスピーチだ。しかし、原稿を作っていなかったのかと思われるほど、話が飛ぶ。おそらくは大まかな筋をメモ帳にでも書いて、それを見ながらざっくばらんに話したのだろう。内容は主に三つある。学問で飯はくっていけるのか、学問に対する姿勢、学問をする意味。学問ひとつをとって、これほど多くの論点を持ち、多彩な表現をできるのは彼しかいない。
特に学問に対する姿勢を述べている箇所が感心深い。
自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。
これは学問に限らない、と彼は言う。「何者かになりたい」と空をつかむ若者たちに、「現実をみてしっかり働け」と諭す。現代にも通じる。
追記:
さすがに短いので、もうすこし書こうか。彼は話の中で、学問が個々人の生活にいかに寄与するかを述べている。その前の話で、「学問の職分はなにを意味しているか」という問いに「とくに意味はないよ」と答えているが、それとこれとは話が違うようだ。まったく、さっぱり分からん。
すなわち、われわれは諸君につぎのことを言明しうるし、またしなくてはならない。これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度——それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる——から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来をたどて導きだされるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導きだされないということがそれである。
説明すると、学問は自分がある視点にたったときに基準を設けてくれる存在である。その基準は自分と折り合いをつけながら、自明性を持っている。すばらしい存在だ。わーい。
例えば、私がきのこ派だとしよう。きのこ派はたけのこ派を潰さなくてはいけない。これは使命だ。しかし、彼女はたけのこ派だったのだ。私は彼女と争わなくてはいけないのか、どうだろうか。人はどうでもいいことで悩む。その悩んだときに基準を設けてくれるのが「きのこたけのこ基礎論」で習った「KT判別法」であった。この法則を用いれば、たけのこ派の彼女とは戦わずに、日々妥協して付き合っていくことができる。
倫理的に問題があるとか、ないとか、つよいとかよわいとか、そんな基準もすべて学問をもとにしている。学問をすること自体にあまり意味はないけど、日常生活に寄与する部分は若干あるよ。
そういう話。
- 作者: マックスウェーバー,Max Weber,尾高邦雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1980/11
- メディア: 文庫
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