「ブンバボンボンボ・ブンバボン!ブンバボンボンボンボ・ブンバボン!」リズムにのって私は舞う。息子は言葉の意味がわからないが、楽しそうな雰囲気は伝わるのだろう、ニコニコしている。
(何だろう?ブンバボンって。まぁいいや、楽しい!わーい。)
私も意味は分かっていない。だれか教えてくれ。
「卵、そして魚(さかな!)、魚からのトカゲ(トカゲ!)、トカゲ!からのブンバボーン!!!!」
ブンバボンとはいったい何なのか。生命の流れにコペルニクス的転回を加えたそれは、NHK教育ならではのセンスを感じさせる。
カントのいうコペルニクス的転回とは、今までの認識の考え方を反転することだ。認識は対象によって左右されるのではなく、対象が認識によって規定される。彼は「純粋理性批判」の中で認識に関する話をしていた。
経験によらない当たり前な認識は存在するか。ないならないで、その当たり前の限界はどこにあるのか。「純粋理性批判」はだいたいそのような内容である。カントは上巻と中巻(岩波文庫版)でほんとのほんとに純粋なサムシングを探した。しかし、そんなものはなかった。(興味のある人は過去の記録を読んでほしい。 純粋理性批判 カテゴリーの記事一覧 - マトリョーシカ的日常)仕方がないので、下巻では実践的な方針であれすることにして、実践理性というワードをチョイスした。
我々には道徳が予めインストールされている。さらには「幸せになりてえな」という欲求も装填されており、そのため人間はいろいろ頑張る。道徳と幸福、ふたつを組み合わせると、完全ではないが、純度の高い当たり前が出来上がる。これが実践理性のエッセンスである。
「神の存在とか言及しちゃうけど、そもそも神というのは人間たちの道徳心が体系化したときに生まれたものなんだよ」と、カント。へーなるほどなぁ。
実践理性が我々を始動する権利を有する以上、我々が道徳的行為を我々に課された責務と考えるのは、道徳的行為が神の命令と見なされるからではなくてむしろかかる行為を果すべき責務が我々にあるからこそ、我々はこれを神の命令と見なすのである。
下巻 p110
道徳をキーフレーズにしたカントは「これで終わりだよ!」という感じで勢い良くペンを置いた。私はなんだかしっくりこなかった。本当にそれでいいのか。道徳や幸福はどこから来たのか。なぜそんなものを追い求めるのか。きっとこんな疑問はカント自身も抱いていたにちがいない。彼の残りの著作にはそのことが書かれているのだろう。来年か再来年あたりに読みたい。
ブンバボンが認識をつくるのではなく、認識がブンバボンをつくるのだ。私の見方や感じ方により、NHK教育のあの体操はいかようにもなり得る。今年のGWはこのようにして過ぎていく。
今週のお題「ゴールデンウィーク2016」
- 作者: カント,Immanuel Kant,篠田英雄
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