マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

意味のある日常

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あらゆる結論は前提を仮定している。この前提自身はそれだけで自明であって証明を要しないか、あるいは別の命題に頼るよりほかに確定し得ないかである。しかもこうして無限にさかのぼることはできないのであるから、あらゆる演繹的科学、とくに幾何学は証明し得ないある一定数の公理に基づかなくてはならない。

「科学と仮説」p60

 次第に視力が落ちていく。去年は右が1.0、左が0.7だったのに、今年は右が0.9、左が0.6だった。「運転のときにメガネをかけなくちゃいけないのって、いくつからでしったっけ」「両目で0.7です。まだ大丈夫でしょう」先生はやさしく返答してくれた。危惧していた採血はなかった。ほっとした。先日息子は一度に6回も注射をされたらしい。恐ろしい限りだ。


 文章のよりを集めている、といっていたのは村上春樹で、それをまとめたのが東京奇譚集だった気がする。私もそのようなよりを採集していればこれほど文字を書くのが億劫にならないのだろうか。

 残業をしていた。同僚たちには背中でさよならを言い、私は終始PCを見つめていた。とにかく線を増やしたり減らしたりして、時間が過ぎていく。いったい自分はなにをしているのだろう。この会社に何を残せているのか。入社してしばらく経つがどうも自分が穀潰しに思えてならない。今日も今日とて工作機械たちの規則的な音色をBGMにして、こうしてマウスをあちこちへ動かしているばかり。きみの評価はそれしかないのだから、それができなければもう大変なことだ。そう言われた。どうしたものか。

 人生における目的はなにか。一般的なものではなく、私個人に限る。ほほう、わからねぇやと前向きに自転車をこぎ、いそいそと毎日会社へ向かう。答えを先延ばしにしているのか、いないのか。はたまた答えが本当に出ると思っているのか。どこかで不可思議な事件が起きて、そのこなくずが身に降りかかってくれないものか。そうすれば今以上にハピネスチャージできるのに。

 ポアンカレの科学と仮説を読んだ。ポアンカレは本の中で、仮説のさまざまを説明している。連続性とかエネルギーとかそういった類の理系的仮説だ。そうすると、真理などというものは存在せず、よろずのことは仮説の上で成り立っているらしい。そうか。私たちは教科書に書かれている公式から、現象はシンプルであるべきというおかしな信念を持つようになった。全てを表す数式がただひとつだけあり、それに世界は支配されているのだと。そんなことはなかった。

 何かをつくらなくてはならない。