どこかでこのもやのような感情をはきだしておかねばなるまいな。ただ、そいつは文章にしていると苦しいほどに単純でなんだかみすぼらしくなってしまうので、明確にはあらわせない。そういえば、きのうみた空はじっとりとしていて、自販機からでてくる炭酸飲料を口にふくむとそれらしい梅雨になった。
コーヒーをインスタントにした日くらいから日常にスピードがアタッチされ、焦る私は数週間後にドリップに戻した。しかしながらスピードが落ち着くことはなかった。これは自分の集中力が落ちたせいかもしれない。以前ならば、朝の合間あいまに数センテンスの文章を軽やかに(誇張があるが)繰り出すことができたが、今は両腕を雑巾のように絞らなくてはならない。(じつはこれも誇張である)
私の特性として息を吐くように嘘をつくことが挙げられるが、これがなかなかにやっかいだ。自分が嘘を忘れてしまうから、どこまでが本当だったかしらと自己を疑ってしまう。自己を疑うというと、仕事ができるひとの空気が感じられるがまったくそんなことはなく、疑心暗鬼のそれである。こまった。こまっているのか。本当にこまっているのは周りの者で、私は不自由なく生活しているのかもしれない。それもまた分からない。
自分が下した決定について、理由がつかめない。他の人に「どうしてそうしたの」と聞かれると答えにつまってしまう。みなは三日前の決定と、それに伴う理由をそれぞれ記憶しているのだろうか。「なんとなく」とか「よさげ」とかそのようなことしか言えない。頑張ってみても「その時点の自分はその選択肢が良いと感じたからだろう」としか表現できない。過去を信じられるか。難しいことだ。
わかっている。彼らがそれを求めていないことはわかっている。適当(ちょうどよいの意) な応答を返してやれば会話はリズミカルに繋がるのだし、世間はギトギトの潤滑油にまみれ、ゆらゆらぷかぷか漂うことができる。私はなにを意地になっているのだろう。
だから幾何学の公理は先天的綜合判断でもないし、実験的事実でもない。
それは規約である。我々の選択はあらゆる可能な規約のうちから実験的事実によって導かれて行ったのである。
「科学と仮説」p76
ポアンカレ曰く、ユークリッド幾何学は真とか偽とかいう存在ではなく、ほかのものよりは便利な概念だと述べている。そいつは我々の環境と無理なく適応される。球の表面で生き急ぐゲームウォッチ人間らはきっとユークリッドではない別の幾何学を採用するだろうが、それはまったく異質ではない。
便利な概念は考えることをやさしくしてくれる。
今日はここまで。