マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

情報と時間とベルヌーイの定理

 数える程度の朝がやって来た。今日私に課されたいくつかの仕事はやがて形骸化し、どこかの宇宙のチリになるのだろう。高校の友人が海の藻屑のことを、海のもずくとふざけて言っていた。当時も今も私にはもずくというものがどんなものかはっきりとは分からず、大きなリアクションをとれなかったことを申し訳なく思う。

 情報が多すぎて、自分一人の目だけではとらえることができない。ええい、ままよと思い目を閉じてみると案外なんとかなった。はて、私が今まで摂取してきたニュースはなんの意味があったのだろうか。ベルヌーイの定理は流体力学に登場する公式の一つで、運動方程式を非粘性・非圧縮の定常流れに限定し変形するものだ。定理の意味は「同一の流線上では流体の速さと密度、圧力に関するある数式において等しい」となる。もっと簡単に書こう。タジン鍋の内側は湯気がでるのが遅いが、口が狭まっているところからは勢い良くピューッと出る。

 情報は流体だ。不連続と認識できるほど、人間の分解能は優れていない。むしろセンシティブであると、頭が疲れてしまうのであえて鈍感に設定しているのだと思われる。情報の洪水を正面から受けると、狭まった感覚器官にはとんでもない流速でそれらが押し寄せることになる。それによって何が起こるかはあなた自身が知っていることだ。

 そんなことがあっても、私たちは常に目を見開いている。時代に取り残されないかと必死だからだ。しかし、未来は一足とびにやってこない。液晶画面の向こうでいくら理想論が説かれても、目の前にある現実は変わらない。働き方が変わるのも、シンギュラリティが起こるのも、ドローンが街を飛び交うのもまだまだ先だ。

 私たちは自動車や飛行機をつくり、その使い方を土地の人々に教えることができる。しかし、自動車のような機械類への愛着というもの人の心のなかにつくりだすことは、そう一気にできるものではない。それは何世紀もかけてはじめて可能になるだろう。

 第一次世界大戦の少し前、ドイツは東アフリカを植民地にしコーヒーのプランテーションを押し進めていた。栽培を任されたのはそこに住んでいる黒人であったが、彼らは労働という概念も持っておらず、なかなか言うことを聞いてくれなかったらしい。「この作業をやればこれだけお金をあげる」という約束事は彼らには存在しなかった。もとからそんな文化がなかったのだ。文化の隔たりが体罰となり、人種差別へと繋がった。

 異なる文化を共有するためには時間がかかる。現在はインターネットの発達で、世界中で情報は均質化されているがそれでも文化の隔たりはまだまだ大きい。技術革新にしても、異文化交流にしても、情報の咀嚼にしても、時間が必要だ。待つことを覚えなければいけない。

 朝日はもう昇った。


 コーヒーの本の感想はひとまず終了。次からは別の記事を書く。

珈琲時間 2015年 08 月号 [雑誌]

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