Marco Oliveira puerto varas, chile, 2014
果たしてどこがスタート地点だったのか。今さっき、一瞬だけ自分の人生を振り返った。とくになにもなかった。何かはあったかもしれないが、よく覚えていない。以前なら日記をしこたま残していて、それに沿って記憶を再生すればよかったが、今はそれもない。だから私のバックグランドは存在しないことになる。
昨日たくさんの雨が降って、地球が少しだけへこんだ。へこんだ隙間に私は両足をついていて、何らかの力で支えられている。周囲はどこも雑草が茂っていて、私の近くを8両編成の電車がゴォゴォ通り過ぎていく。そういえば久しく通勤野草学を受講していないな、と思った。しかしながらそいつは講師もテキストもない授業なので全くモチベーションが上がらない。
現に、もっと精密な実験は我々に何を教えるだろうか。それは我々にその法則がほとんど真であるとしか教えないであろう。しかしそれは我々がすでに知っていることである。
p135
力学においてもあやふやな仮説が氾濫している。加速度は力と質量の積に等しいとか、外部の力を受けない物体は等速直線運動を行うというのは適当な仮説である。私たちは正確な力や質量を計りえないし、実のところ加速度がなんであるかもよくわかっていない。それでもセブンのお惣菜的な感覚で誰かの考えを採用したのは、それがいちばん帳尻を合わせるのが楽だったからだ。まさに便利。コンビニエンスストアである。
しかしあらゆる命題は無限の方法で一般化される。あらゆる可能な一般化のうちでどうしても我々は選択をしなければならないし、我々は最も簡単なものを選択することしかできない。だから自然と、他のあらゆる事柄が等しければ、簡単な法則の方を複雑な法則よりも確からしいものででもあるように取り扱うことになるのである。
p158
ポアンカレは慣性の法則をより進めて、絶対運動と相対運動について書いた。この世の中には絶対座標とか絶対空間はありはしないのだが、便利なのでそのような考え方がある。だいたい全てのものは独立には存在せず、他のなにかの影響を受けている。だから運動も相対的になりたつのであって、あれまあなんやらいろいろめんどうくさい。今、ここに、この速さで、あるのは、過去のなにがしと現在のなにがしが火の粉をちらしているからだ。全く。この何かはどうやって記述すればいいのだろう。そういう経緯でエネルギーというワードが出来た。
ひとつのシステムの運動エネルギーと位置エネルギーの和は一定である。変化が起こる時はエネルギーの変化が小さくなるように変化する。この二つがエネルギーに関する教えである。しかしながら、私たちは彼をどうやって定義すればいいのかわかっていない。位置と運動にまたがるようなそれ(熱や電気など)があった場合、それをどうやって教えにはめこめばいいのか。
完璧な教えなどといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。しかし力学はなお研究される。なぜか。「それを応用するため」とポアンカレはいう。実験を重ね作り上げた定義は、それ自身が真ではなくとも構わない。実生活上に問題がなければいいのだ。物理に誤差とか有効数字とかいうのが出てくるのはそのためである。
そういう日だった。
- 作者: ポアンカレ,吉田洋一
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