マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

”必死の努力”で講義をさぼる大学生

 

 大学の講義は退屈だ。とくに一般教養とかいう授業は何の興味もない英文学の歴史や脳細胞の話などを小一時間聴かなくてはいけない。先生はパワーポイントで作られたスライドを流しては読むのみ。要領のいい学生は代返を頼むなりして自身の青春活動にいそしむ。
 要領の良くない僕はただ授業をぼーっと聴く。ふと、誰かに尋ねたくなる。


「先生、これは何の役に立つんですか?」

 

 
 驚いた事に上記のことを小学一年生はひらがなを習うときに先生に聞くらしい。おかしい。僕が小学生のころはそんなこと考えもせずに、目の前にある漢字のかきとりをめんどくさいなりにやっていた。「やはり学力低下か」「ゆとり教育の弊害」
たいていの書籍はこうやってなじるだろう。しかし、この本は他の文献からこう引用している。

 

<私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。(中略)子どもたちが早くから「自立」(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルのなかに入り込み「消費主体」としての確信をもつからであろう。(後略)>
これは過去十年間教育について読んできた言葉の中で、僕にとっては最も啓発的な言葉でした。子供たちは就学以前に消費主体としてすでに自己を確立している。まさにその通りだろうと思います。

 教育を受ける事も、サービスとして受け取られ、「その商品(教育)を買う(受ける)メリットはあるか」と訊ねるわけだ。なるほど、感心した。この本では学びからの逃走、労働からの逃走という問題が取り上げらている。
これに逃げたらもう何もできなくなりそうなのに…。


 商品として教育を受ける。その対価として彼らは何を払うのか…。それが「疲労」らしいです。

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