マトリョーシカ的日常

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【書評】結局は、どうあがいても絶望/「絶望の国の幸福な若者たち」【感想】

お腹が空いて力が出ない。

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絶望の国の幸福な若者たち

 発表用の資料作りをしていたらいつの間にか昼を越してしまい、今から食べると中途半端な腹具合になりそうだったので一食抜くことにした。こんなことは人生で初めてだ。この前観たとんでも健康法の影響なのかもしれない。そんなことはどうでもいい。古本屋でこの本がワゴンセールで売られていたのを見かけたので思わず購入した。一昔前に店先で流行って一度は読みたいなと思っていた。三百十五円。安い。


 タイトルから連想するのは語り尽くされた世代論および若者論だが、実際に読んでみると内容は多岐にわたっている。伝統の若者語りを百年前から現代までずいずいと調べた後は、現代の若者が持つ「内向き思考」「〜離れ」について語る。ワールドカップからナショナリズムへ話を展開したかと思ったら、その勢いのまま脱原発デモおよび震災ボランティアと突っ走り最後に若者論を詰め込んでいる。読んでいる最中は着地点が分からずそわそわしたが、終わってみると案外普通のところへ落ち着いた。ふぅ。

 著者は表題で日本の国の若者を幸福と表現しているが、どうやら百パーセント幸福なわけではないようだ。彼らは日常の生活に対する満足度は高いが日本や世界の未来に対してはマイナスのイメージを抱いている。満足だけど不安。どういうことなのか。

人はどんな時に「今は不幸だ」「生活に満足していない」と答えることができるのだろうか。大澤によれば、それは「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろうと考える時」だという。

 なるほど。幸せな将来が描けないから彼らは現状は満足していると答えるのか。筆者はその後に若者のコンサマトリー化、つまり刹那的な充足感について論じている。彼らだけの村社会をつくって内にこもり村々している。しかしその一方でどこかムラムラしている。今の焦燥感をどこかにぶつけるところはないのか。きっかけとなる出口あるいは非日常はどこかにないのかと。ワールドカップやオリンピックは若者たちに非日常的な雰囲気をもたらすがそれも一時的な物に過ぎない。そんなときに震災が起こった。3.11による非日常感はそれまでのスポーツイベントの非ではなかった。若者たちは募金やボランティア活動に打ち込んだ。デモに参加し脱原発を呼びかけた。すごいぞ、日本の若者は捨てたもんじゃない!

 と終わる訳ではない。最終章で著者は日本が抱える社会問題を挙げ、これからの日本は階級社会へと姿を変えていくと予測する。そして以下の文章で締めている。

 なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。
 絶望の国の、幸福な若者として。

じゃあどうすればいいんだよ!

 全く救いのない内容だった。この本には答えや道筋が書かれていない。この国が絶望的な状態である今こそ何々をしようとか、これはすべきではないという記述がないのだ。しかし締め方を前述のようにうやむやなものにすれば、読者は自分で考えて答えを作ることが出来る。間違った道を示さないという点で著者は良い人物なのかもしれない。

 じゃあどうすればいいのか。もし日本が本当に階級社会に変わっていくとしたら、僕は絶対に上の階級になりたいと思う。生活が安定しないフリーな生活よりもストレスフルな正社員の身分で頑張りたい。嫌なことがあってもすぐに辞めずに他の就職先を探してから退職したい。万が一解雇された場合に備えて、自分の身ひとつで食べていけるような武器を身につけたい。武器さえあればあとは収益が得られるシステムをつくるだけで生活はできるらしい。

 この本に書いてあった。
【書評】好きで食うために大切なのは「どうやるか」/「そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか」 - マトリョーシカ的日常


 ブログも武器のひとつになればいいなと思う。

 こちらからは以上です。