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【書評】ぼくはここに千年前の発言小町を見た/「蜻蛉日記」

プライドと小町

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蜻蛉日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)


 今日はみんな聞いたことがある古典を紹介する。蜻蛉日記。内容をひと言でいえば、「かわいそうな自分」をテーマにした二十一年間の結婚生活の記録だ。時は平安時代。筆者である藤原道綱の母はエリート役員藤原兼家にとつぜん求婚され、結婚生活がスタートする。しかしたいそうモテる兼家は浮気性で筆者のもとにはめっきり顔を出さない。子の道綱とともにさびしい暮らしを送る。

 書式は日記であるが、リアルタイムに書かれたのではない。過去を振り返り「はかなき身の上」というテーマに沿って描写、場面を再構成している。それゆえ全体を通して見ていると「そんなに悲劇というわけでもないよね」という印象を受ける。

 平安時代のシングルマザーが発言小町に書き込みをしている感じ。

当時の結婚

 当時は一夫多妻制であり、通い婚だった。男性は毎日お気に入りの女性のもとへ通い一夜をともにする。藤原兼家もその例に漏れず、筆者に結婚する前に時姫を妻にとっていたし、結婚したあとも町の小路の女、近江などと新しい女をつくってはせっせと通っている。「なんてふしだらな」と思うがそんな時代なのだ。

 そういう訳で筆者は待つ。ひらすら待つ。数ヶ月来ないこともある。雨が降ったら「今日は来ないのかもしれない」と思いながらもわずかな希望を持ちながら彼の足音に耳をすます。先払いの声(「兼家様がきたぞー」というお連れの声)がしたと思って身を起こしてみたら、自分の家を素通りしたりする。悲しい。

縫い物と歌がうまい

 時を経るに連れて兼家が家にくる頻度も少なくなっていく。しかし彼からは「こんな着物を仕立ててほしい」という依頼はくる。解説者も書いてあるが、筆者は縫い物が上手かったようだ。もう妻というより都合のよいお母さんという感じである。また、歌もうまい。中古三十六歌仙の一人に数えられ、様々な歌集にも歌が採用されている。当時は歌がうまいというのは男女ともに重要な一種のステータスだった。兼家が結婚を迫ってきたのもその評判を聞いたからだとか。

 筆者と兼家は身分に大きな隔たりがあったが、縫い物と歌という特技によって二人の縁は繋がっていた。
 
 

全てが悪いイベントというわけではない

 蜻蛉日記と聞くと、辛く悲しい心情を描いた文章という印象を受けがちだが、読んでみるといやそうでもないぞと気づく。上巻は病気が治った兼家と精進料理を食べるシーンがある。兼家宅へ赴く筆者だが、女性が男性の家に行くのはおおっぴらには出来ないので夜中にひっそりと訪ねる。入り口がわからないと暗闇から兼家の声がして、招き入れてくる。「まだ夕飯食べてないんだ。一緒に食べようと思ってね」といって二人で料理を食べる。なんだか心がほっこりする。

 また、子の道綱が弓の大会で健闘するイベントも書かれている。道綱のチームは前評判が悪く、負けるだろうと思われていたが、道綱の活躍で引き分けになったのだ。勝ったチームは舞いを踊るのだが、今回は両チーム共踊った。練習の甲斐があったものだ。筆者もかなり嬉しかったようで、「日頃の憂さも忘れ」たようだ。

ビギナーズ・クラシックシリーズで古典初め

 今回読んだの蜻蛉日記は、角川ソフィア文庫のビギナーズ・クラシックシリーズのもの。日本語訳と原文、解説が載せられていて大変分かりやすい。古文を読むのが難しかったら日本語訳を読むだけもOK。要はタイムスリップして昔の世界に想いをはせることができればいいのだ。千年も昔の出来事も文章にすれば目の前にありありと迫ってくる。当時の人々の暮らしぶりとか、今と変わらない恋心とか。違和感も抱くし、共感することもある。

 古典を敬遠しないで欲しい。すらすらーと読めるから。

おわりに

 ビギナーズ・クラシックシリーズは十冊出ている。全部読みたいな。


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