私の文章にはオノマトペが少ないか。日常の会話にも入ってきていない気もする。そのくらい音にこだわりがないのかもしれない。ただ、散髪の音声はジョキジョキでそれは安定している。頭髪が切られるほど、自分の記憶が抜け落ちていく感覚があって、忘れを許される。心地よい。
終わり帰宅すると妻はもうすこし切れば良かったね長いねと言う。確かにそうだなつぎはあと3センチほどやってもらおう。そうなってくると記憶はどこまで排除されるのか。可能な限り余計な情報を削減したい思いもあるし、昔のどうでもいい記憶に左右されたいありかたもある。
フォン・ノイマンの生涯を読んでいた。天才だった。量子力学をやったり原爆の開発をやったり、経済学の論文を出したりコンピュータをつくったりした。先日はオッペンハイマーの本を読んだが、彼とは別種の天才。ノイマンはバランス感覚に優れていて、ユーモアもあった印象。だから興味あることを追求しながら、自在に生きていけたような気もする。
さまざまな偉業は彼一人がなしとげたわけじゃないが、なんというか、いい感じに仕上げる能力が高い。事前にある状況や情報を効率的に整理して、最短距離で解決させる。予算をとったり、人に任せたりといった面もある。プロジェクトをぐいぐい進めていくのだ。孤独な研究者ではなかった。
温室効果や寒冷化という大問題に気づきながら、いかにもジョニーらしいのは、それを嘆くのではなく、むしろチャンス到来と受け止めたところ。
悲観的な人間ではなかった。自分の楽しさとかワクワクに重きをおいて生きていたのだろう。非常に憧れる。
そんな本を読んでるんだよ、と妻に告げると「天才の本を読んで天才になりたいんだねぇ」といった回答を頂いた。そういうことかもしれない。擬似体験したい。私にも生かせるような生き方のヒントがないのか。そうやって読んでいたのか。
文章を日常的に打つようにしないと、どんどん頭が錆びていく。より多くの言葉を持ちたい。行動とセットで文章を書く。