雪みたいな雨のせいで、道がぬかるんでいた。履いていた靴にはすこし割れ目がはいっているようで、歩くごとに足につめたさを覚えていた。家に残してきたコードのことを思い出しながら、あのときの処理やデザインのやりかたについて、良いやりかたを探していた。
青色本を久しぶりに読み解いている。ウィトゲンシュタインの本。彼は「論理哲学論考」で「語りえぬものについては沈黙しなければならない」としめているが、しばらく生きていると「そうでもない気がするなぁ」と考えたのか、また哲学を始めている。その講義録が青色本である。
言語がなくっちゃ意味がない!とやってきたわけだが、「じゃあその意味とはなんだ、語の意味とはなんだ」と問いを始めている。語、いわゆる言語は、記号を操作するロボット的な部分とそれを解釈する心的な部分にわかれている。
語に意味を持たせる、つまり生命を持たせるにはどうするか。
そして人がこのことから引出す結論は、生きた命題にするために死んだ記号に加えねばならぬものは、単なる記号とは別の性質の何か非物質的なものである、ということになる。
p15
有機的ななにかを入れないといけない。ここで心とか思考とかそんな話になってくる。非物質的でよくわからないなにかである。人間だけで生きていた時代は良かったが、さいきんではおしゃべりAIが誕生していて、彼らと私たちにはなんの違いがあるのだろうという雰囲気がある。
哲学者は、哲学的意見ないしは確信として、感覚与件は存在すると言う。だが、感覚与件が存在することを信じると言うことは、結局のところ、或る事物が存在しない場合にも我々の眼には在るように見えることがあることを信じる、と言うことである。
p160
本書の到達点としてはこのあたりまでだろうか。つまりは「あるからあるんだよ!」「信じろ!」ということである。心がある!と信じればあるし、そうすると生まれ持った情熱や意味の起りがわかってくる。この、あるんだよ原理主義によって様々な事柄はなされていくにちがいない。
そうなのか。
ただ、青色本はウィトゲンシュタインの思想の途中経過を書き残したものであり、ここから後期の「哲学探究」につながっていく。