マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

書き出しのみで構成される文脈

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S T A R T R A I L photo by Samuele Errico Piccarini (@samuele_piccarini) on Unsplash

意味に立ち向かわなくてはならないが、私はそれに気をやることができない。どうあがいても夏は終わってしまい、短い季節がそこにある。ここは何処か。

四分という短い乗り換え時間をやり過ごし、私は電車に乗った。ドアが閉じて車両が動き出すその瞬間に、後ろ髪を引かれた。景色はどこまでも未知であったし、等しく何も与えなかった。


持ち物が増えるほど、どんどん弱くなっているような気がして、それは老化ではなくて、縮小でもなくて、それでも悪い気はしない。生きるとは強くなることではなく、弱さの中で自身をやりくりすることではないか。

非周期的に変動している値を何かの指針に合わせたいときがある。そんなときは、90%レンジという概念をもとにして解を構築すればいい。らしい。省令に書いてあった。ただ、変動や周期とかいうものは主観でしかないしなあ、と考えてしまう。そうすると全ての事象は主観となってしまい、整合性はなくなるのであった。

誰かの死を書き出しに用いている小説、わたしはひとつしか知らない。「異邦人」。あの主人公は誰かを殺めてしまって、なんとかなって終わった。私は文章に対してひどく関心が薄い。

電気自動車への移り変わりは、単なる駆動源の変化ではなく、移動手段のデザインの変化となるはずだ。エンジンがなくなることで、車はもっと自由になる。誰でもつくれるようになる。下手すると、もはや車ではなくなるかもしれない。どうなるか分からないが、そこには楽しさしかない。

徳を積むように電子マネーを貯める未来が見えた。空き缶をゴミ箱に捨てるとポイントが貯まるような。誰かがある行為に対してポイントを設定し、それを別の誰かが実行するような未来。しかし、それは道徳とは何か、正義とは何かということに成りかねず、私たちは新しいシステムを目指さなくてはいけない。