神は言われた、「年の瀬に年末あれ。そこそこ忙しくなれ」。そのようになった。息子にはサンタからクリスマスプレゼントが届いていた。プラレールのベーシックセットとアンパンマンの人形だった。割と嬉しそうだった。私がプラレールのレールを丸くつなげてくるくる回すと、彼も同様にして遊んだ。正しさを教えなくてはならない。本当にそうか? 正しさとは何か。私はそれを知っているのか。わからない。
年を重ねるごとにわからなさが増している。それといった解答もないことがらに、適当に返事をしていかなくてはいけない。それは冬用タイヤの交換問題や実家の帰省の頻度、クリスマスプレゼントの品目、結婚記念の祝い、これからの仕事の関わり方だったりする。あと家とか。私は来年になればこれらの問題は立ち消えるのではと、おかしな期待を抱く。とにかく今週を乗り切ってしまえばなんとかなるだろうと。そんなことはないのに。
分からなさをポジティブに変換すると可能性という言葉がみえてくる。私の中では可能性の連関として大学のキャンパスがあって、そこでは何にでもなれそうな、なれないようなiPS細胞のような粒子が振りまかれていた。呼吸をすると気持ちが良かったのはそのせいだった。実際は何でもできたのだろう。私は特に何もせず、こうして生きている。
投企は投げることにおいて可能性を可能性としておのれに先投し、どこまでも可能性として存在させるのである。
p146
現の存在論的構成は了解と心境とそれから話において成り立っている。しかし、それら三者の根源は了解らしいので、私は「何だもう全部了解でいいじゃん」と了解することにした。そのようになった。了解は投企とよばれるものをおのづから備えていて、とにかくまえでの方へ了解の粒子をぶん投げている。あらゆる常識やルールのねっこは了解のもとになりたっていて、そのきわのきわはどこまでも伸びていく。宇宙が膨張するのと似ている。へーと思った。
現存在は、本質的に了解的なものであるから、さしあたり、了解されたものごとのもとに居るのである。
p351
ようやく第5章を読みきった。あと1章残っているが、このペースだと来年も読み切れるかわからないので、存在と時間はとりあえずここでひとくぎりつけよう。来年は川添さんや知らない人からもらった本を読んだり、古本屋で買った小説とかを読みたい。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,細谷貞雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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