いったい私はどこにいるのだろう。ここにいるのか。文章を書くという行為がすさまじく難しいことになってしまっていて、キーボードで文字をひとつ打ち込む際に体がきしむように感じる。さいきんはいろいろあって、いろいろなかったので、存在と時間の存在など忘れてしまった。あの本の内容はわりと複雑であり、私は本を開くたびに「やれやれ」とつぶやいてしまう。すべて嘘です。
存在を現すリッチプレミアな構造を、彼は「世界=内=存在」とした。このみっつはどれも同じことであって、なんだかすごいのだ。その存在に対して、すごく了解しなければならない。「あるんだよ!」と。二章のはじめに彼はこれから書きたいことをつらつら説明していた。三章は世界を書きたい。四章は世界=内=存在によって存在している奴はだれかを書きたい。五章は内=存在を書きたい。なるほど。そうして私は三章の中央付近で1ヶ月もぐるぐるしていたわけだ。疲れる。
ちなみに二章ではチュートリアル的なノリで、内=存在について書かれていた。よくわからなかった。ただ次の文章は面白かった。
今日では、「人間はそれぞれ環境をおつ」ということがしきりに言われているが、この言い方も、この「もつ」ということが規定されずにいるかぎり、存在論的には意味がない。この「もつ」ということは、その可能性について言えば、内=存在という実存論的構成にもとづくのである。
ちくま新書「存在と時間(上)」p140
それぞれの環境と聞いて、私はスマホとか近代的なそれを連想した。電車の中ではだれもがうつむきながら必死に自分の環境を構築している。実に忙しい。こうなってくると、メガネのようにスマホも体の一部になって、「もつ」を意識しなくなるのではないか。すでにあるのだから。あと10年くらいしたら、日常に溶け込むようなインターフェースの電子機器が登場するだろう。とにかく「あるんだよ!」である。実存とはそういうことだ。
三章は世界の世界性を話していた。私たちが存在を考える時、つねに「〜のなか」を意識する。それ単体では存在は成り立たないからだ。そうか。その外枠が世界である。しかし、世界も実存している。いままで前提とされてきた枠について考えなければならない。そういった内容だった。
現存在が存在者を自然として発見できるのは、その世界=内=存在の特定の様態においてにすぎない。そしてこのような自然認識は、ある意味で世界の非世界化(Entweltlichung der Welt)という性格をそなえているのである。
ちくま新書「存在と時間(上)」p156
枠を枠と見るのをやめよう、という引用だ。へぇ。つづきが書かれていた。私はよっこらしょと読む。身の回りの事柄から考えると、あらゆるものには意味が込められている。デバイスにはそれなりの役割というものがある。それを制作する側の意思であったり、加工物自体が発するものだったり。道具性というそうだ。道具性は存在を決定づけるすごいやつですごいのだ。
その性質が内の存在を決定づけるものということはわかった。しかしながら、存在は内側にあって、世界は外側にある。いかにして存在を枠に近づけるのか。価値をなくしてしまえばいい。存在を存在とみなさなければいいのだ。使い古したフライパンのように。遊び飽きたゲームのように。すると、その時点からフライパンやゲームは世界に溶け込み始める。ついには世界になるのだ。こいつが用具的存在者の非世界化である。
かっこいいことを言ったつもりだが、なんの解決にもなっていない。世界を超えたスーパーアプリオリ、超当たり前、ウルトラ前提されたものはなんだろうか。カントの純粋理性のようなそれはなんなのか。ハイデッガーさんは再帰処理だと述べた。世界は世界を夢見る。なるほど!
三章はだいたいよいことにしたので、次は四章を頑張ろうと思う。
- 作者: マルティンハイデッガー,Martin Heidegger,細谷貞雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/06
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