マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

kyokucho1989

 昨日、id:fktackさんの記事を読んだ。子どもの頃は親が換気扇の下でタバコを吸っていて、そこでは大人の会話が行われていたというような記事だった。彼はこどものころに、どうして自分は自分なのか、と考えていたらしい。さいごのほうにマトリョーシカに対する言及があった。

考えていくと、ぼくが内側にもうひと揃いできる感覚があった。考え続けるとさらにできた。だんだんと、マトリョーシカのようになっていった。 私は、マトリョーシカ、という言葉が冠につかわれたブログを知っている。書いている人も、自身について考え抜いたに違いない。しかし、台所の椅子や換気扇やチアノーゼは、まぎれもなく私のものだ。

fktack - 意味をあたえる

 残念ながらまったくそのようなことはない。そうコメントすると、「これから考えてもらえばつじつまが合います」と返された。つじつまがあう。なんだかおかしな表現だ。ブログのタイトルは適当につけられたものなのに、それに私が合わせなくてはいけない。名が勝手に動き出している。こんな私でも昔は今よりも自己を省みていた。高校生のときはアナログの日記を書いていたし、大学のころは手帳を持ち歩いていた。日々の記録をつけておくことで、忘れやすい自己についてなにかとどめておけるのではないか。きっとそんなことを考えていた。それに昔を振り返るのが好きだった。

 刹那主義というか昔に興味がなくなってきたのは最近だ。書き溜めていた日記帳と手帳を捨てた。それは読み返しても何もしてくれないし、タイムマシンの機能を果たすことはない。どうあがていても今は今であって、過去から変えることはできない。出来るとしたら記憶の編集くらいか。それも私の文字から読み取れる記憶は微々たるもので、何度もやっていると、日記を書き込んだ当時の記憶ではなくそれを読み返している時の記憶を上書き保存してしまう。記憶は役に立たない。

 私はよくものを忘れる。あのときなにをしていたのか。どんなものを食べていたのか。どこへ行ったのか。忘れると不便だった。それに反して妻は非常に覚えがいい。とくに食事に関しては。おそらく旅先の食事は全て覚えているのではないか。そういうわけで私は安心して忘れることができる。忘れると新しいものが入ってきやすいらしいが、残念ながらそれもすぐに忘れてしまうので私の脳内の余白はいつまでも余白のままだ。

 終点がみえなくなった。適当なところできりあげよう。

OMM-design ポケット・マトリョーシカ ロボット

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