マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

ナンセンス☆ウィトゲンシュタイン

 猛烈な雨と風は私がさしていたビニール傘をぐにゃぐにゃにしてくれた。何かの映画のジャケットに、どしゃぶりの中で両手を広げて雨を抱いていてる男が映っていたのを思い出した。両手を広げた以外は私はだいたいそのようになった。その足で会社へ行き、タイムカードを押した。傘を買わなければいけない。

 大切なことを話していなかった。つまるところ、語るとは本文中で何を意味しているのか。ウィトゲンシュタインは項目4.114~4.116において各単語の言い換えを行っている。思考可能とは語りうることであり、語りうることは命題が描写可能なものである。命題によって記述できるか否かが語ることの境界であろう。

 そういう理由で、ウィトゲンシュタインは哲学的なあれこれはたいていナンセンスだと唱える。答えることなどできないし、孫の手があるのにかゆい。さもしい。

 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。

 高校時代の担任がよく「ナンセンス」という単語を口にしていた。あまり聞き慣れない言葉であったので、いまでも覚えている。あれは学生運動の際に彼らが「ナンセンス!ナンセンス!」と言っていたことにつながりがあるのかもしれない。担任の先生もデモに参加していたのか。分からない。

 とにもかくにもウィトゲンシュタインは哲学が好きではなかったらしい。そういえば彼の文章は考えたがるというより、分けたがる/分類したがる気配がする。血液型で言えばA型、念能力で言えば具現化系。ナンセンスな哲学的問いを排除するために論理学の観点から、エウレカをにゅっと押し出した。

 今日の文章はあまり本の解説になっていない気がする。おそらく昨日の川添さんとの対談が原因だ。あれによって私がいかに常日頃考えずに文章を打ち込んでいるかを自覚した。そう、私は考えていない。なんとなく文章を書いて、あとはみなさんに丸投げしている状態だった。「これではよくない!」と今日は考えながら文章をぱちぱちしているが、全然うまくいかない。難しいね。

 語ることは命題を記述することだと分かった。これからはウィトゲンシュタインが披露した、漏れなくダブりなく事態を記述する術を書き下していきたい。


 あ、これだ。

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プリズンブレイク☆ホトトギス - マトリョーシカ的日常