マトリョーシカ的日常

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金曜のたい焼きに結合するあんこ/「純粋理性批判(上)」解説 その2

 木曜日はたい焼きの日と決めていて、おばちゃんが経営するその店でもちもちのたい焼きを買っている。しかし、今週は木曜は店の諸事情で休みになっており、僕はその恒例行事を一日延期した。つまり昨日のことだ。一日遅れで購入したそれは、ちゃんとおいしかった。金曜ロードショーもなかなか楽しかったし、これで一週間もハッピーエンドを迎えることが出来た。ロードショーはメンインブラック3だったが、作中にでてきた予言男はあらゆる可能性を見据えることができる宇宙人で、主人公が「また会うことはできるかな」と言ったら「全ては可能さ!」と笑っていた。

 どうでもいい話をしてしまった。純粋思惟の話をしなくてはいけない。人間の認識は感性と悟性の両輪によってなされる。カントは認識の「あたりまえ」を追求するために、純粋感性と純粋思惟を考えた。どちらも経験を排除した、まじりけのないアンテナとCPUだ。前者は先日話をした。

 純粋思惟はつまるところ、概念(カテゴリー)である。概念は量、質、関係、様態の四分類がそれぞれ三種をもつので、全部で12ある。細かい内容はいつかingressと哲学について論じた記事があるのでこちらを参考にしてほしい。

Ingress初心者日記 第七回「純粋レゾネーター批判」 - マトリョーシカ的日常

 概念とは人間がモノをとらえるための考え方の根本である。抽象化と言ってもいい。算数の授業で、「たかしくんはりんごを3つとなしを5こ買いました。あわせていくつですか」という問いに対し、「りんごとなしは一緒じゃないからあわせられません」と回答する児童がいる。彼はりんごとなしを果物という枠にはめ、おなじものを見なすことができない。(そうはいっても形の異なるan appleがapplesになっているのは容認しているので、もう少し時間がたてば大人になれるだろう。)抽象化とは考える上で大切な作業だ。そこにあるものを記号や象徴に置き換えて、保存や編集が簡単に行えるようにする。ここらへんの編集のことを、カントは結合と呼んだ。

 結合と聞くと、雪だるまをつくるように小さいものに徐々にものを付け加えていくイメージを抱くかもしれない。しかし結合とは雪だるまを破壊(分解)することも含まれる。なぜなら分解とは結合が前提となっているからだ。カントは純粋思惟があたりまえである理由は、概念が結合の働きを有しているからだとした。結合はあらゆるものを結びつける。それゆえ、それ自身が最初のピースになる。あたりまえ、あたりまえ。

 本当ははじめにしておけばよかったが、ここで「純粋理性批判」の構成を書いておく。上巻では先験的原理論として、感性論と論理学を書いている。このまえの感性と悟性のことだ。感性論は空間と時間についての説明でだいたい終わっている。論理学はカントが「いいね!」と言っている分析論と、「だめね!」と批判的な態度を持つ弁証論に分かれる。今回の記事は論理学の分析論をとりあげた。分析論では、概念(カテゴリー)のあらましと、「純粋悟性概念の演繹」つまりは「純粋思惟がどうしてあたりまえに存在するのかの説明」を行っている。

 分析論はもう少し続く。今回は概念の枠を決めたが、これは単にルールをつくっただけにすぎない。サッカーの審判はルールに基づいて判断をする。しかし、反則の線引きはつまるところ自身に求めるしかない。ルールだけではだめだ。ルールに当てはまるか否かを判断する能力も必要になる。それについて述べているのが「原則の分析論(判断力の先験的理説)」である。

 続くかもしれないし、続かないかもしれない。

前回:
あたりまえ体操の入り口 / 純粋理性批判(上)の解説 - マトリョーシカ的日常

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)