マトリョーシカ的日常

ワクワクばらまく明日のブログ。

あたりまえ体操の入り口 / 純粋理性批判(上)の解説

 ひとむかし前に、あたりまえ体操というのが流行った。2人組の男性があたりまえの動きについて論じている。「右足出して左足出すと、歩ける」「手首をまえに何回か曲げると、人来る」彼らはそうやって笑いをつくっていた。しかし、あたりまえとは何なのだろう。彼らのいうそれは経験上分かっていることで、生まれもって所持している観念ではないはずだ。本当のあたりまえはどうやって僕らの頭に入って来たのか。あたりまえの範囲はどこか、それらは確かにあたりまえなのか、あたりまえに価値はあるのか。カントの『純粋理性批判』はそんなあたりまえに関する本だ。


 純粋理性とは何か。それは人間の経験や傾向を一切排除した理性である。摩擦のない床や理想気体と似たようなものか。そしてこの場合の批判は誤りを正すように言う「批判」ではない。

我々は純粋理性とその源泉および限界との批判を旨とするような学を、純粋理性のための予備学と見なしてよい。そしてかかる予備学は、学説ではなくて単に純粋理性の批判と呼ばれねばならないだろう。

 そう、予備学だ。批判の言葉の中には、学と名付けるにはまだ体系的に整っておらず、書きながら体裁を整えていこうというカントの意志が見られる。

 さて、この本は認識についての話だ。人間の認識は感性と悟性によってなされる。感性とは主に五感のことで、見たり聞いたりして外部の情報を受け取る。一方で悟性は、そうやって得た情報を自分の内部で処理すること、つまり考えることがそれにあたる。この二つは認識の両輪であり、どちらが欠けていてもだめだ。ふたつはそれぞれ経験上得られるもの、生まれつき備わっているものにさらに区分される。感性は経験的直感と純粋直感に。悟性は経験的思惟と純粋思惟に。純粋理性とはあたりまえでピュアなそれなので、ここでは経験的なんとかよりも純粋の方が多く語られる。

 純粋直感を考えよう。僕らの経験を無としたき、一体感覚は何をとらえるのか。質感や空気感、音や匂いは消える。目を閉じれば光はなくなる。残るのは空間と時間だけだ。物体をお弁当のおかずとすると、空間はお弁当箱だ。中身のない弁当を考えることはできるが、弁当箱のない弁当を考えることはできない。そういうことだ。時間は自身が持つ腹時計だ。空腹を感じるということは、時間を伴う。変化は一人一人の内側によって規定される。

 純粋思惟はもう少し難しくなる。

 つづくかもしれないし、つづかないかもしれない。 

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